ジョージ・ワシントンを抜きにしてアメリカの歴史を語ることはできないだろう。アメリカ植民地の荒くれどもを軍隊にまとめ上げ、彼らを率いて戦いで負けても負けても、イギリス軍が根負けし降参するまであきらめずに戦った軍事リーダーにして、生まれて間もない未熟な国を初代の大統領として導いた建国の祖(Father of His Country)であるワシントンは、アメリカでは神格化された人物と言えるだろう。そのワシントンを讃える記念碑が、彼の名前をとった首都ワシントンに首都のシンボルとしてそびえ立っている。アメリカが民主主義国家として発展する礎を築けたのは、ひとえにワシントンによるところが大きいと言われている。
独立戦争の勝利にアメリカ国民は歓喜の声をもって応えた。多くの国民がワシントンを国王にすべきとまで言い始めた。ワシントンは、権力を欲せず、最高司令官の地位を辞職して、実家のMount Vernon(マウント・ヴァーノン)に帰った。しかし、世間はワシントンをそのままにしておこうとは思わなかった。すぐさま、フィラデルフィアで開催された憲法制定会議に呼び出され、ワシントンは満場一致でその議長に推され就任した。ワシントンによる憲法案の支持は各州に大きな影響を与え、滞りなく各州による批准が行われた。憲法で規定された大統領職については、誰もがワシントンの就任を願い、選挙人も満場一致でワシントンを大統領に選任した。1789年4月30日、ニューヨークの
Federal Hall(フェデラル・ホール)で大統領に就任した。彼は、国王のような権力を大統領が握ることには反対し、あくまでも民主主義国家のリーダーとしてふさわしいものとなるように腐心した。大統領のことは、Mr. Presidentと呼ばれるが、これはワシントンが大仰な呼ばれ方を嫌ったため、この呼び方が使用されたためである。1792年の選挙でも満場一致でワシントンは大統領に再任された。100%の得票で当選した大統領は、後にもなく、ワシントンだけとなった。
ワシントンは、財務長官に
アレクサンダー・ハミルトン、国務長官に
トーマス・ジェファーソンを起用したが、この二人は思想的に水と油で内政・外政を巡り、大きく対立した。ハミルトンは、連邦政府は憲法で権限行使を認められていない事項を除き権限行使を認められるべきと考え、強力な中央政府の実現による商業・貿易の発展を目指した。このため、独立戦争時の州の債務は連邦政府が引き継ぎ、これを処理することで連邦政府の信用を高めるとともに、連邦政府に国立銀行を設立させてそこに通貨発行機能を持たせる提案を行った。また、外交面では主要な貿易パートナーであるイギリスとの関係改善を優先させるべきと主張した。一方、ジェファーソンは、連邦政府の権限行使は抑制的であるべきで憲法により明確に連邦政府に与えられている権限以外は、連邦政府は行使すべきでないと考え、州の権限を尊重し、農業国家としての発展を目指した。このため、ハミルトンの経済政策に反対した。また、外交面では、フランス革命に共鳴し、真の民主主義国家たるフランスを支援すべきとの考えを持ち、ここでもハミルトンと対立した。ハミルトンとジェファーソンの対立は北部と南部との対立でもあった。軍隊の経験をもつワシントンは、民主主義国家においてもある程度強力な中央政府を持たなければ国民は守れないと考え、概ねハミルトンの考え方を支持した。ジェファーソンは、1793年に国務長官の職を辞した。この結果、独立戦争時の未払い債務処理のため、ウィスキーへの物品税が導入され、国立銀行が設立された。国立銀行の設立に当たっては、ハミルトンはジェファーソンに譲歩し、首都をニューヨークから南に移すことに同意した。ワシントンは、メリーランドとヴァージニアの境のポトマック川下流の湿地帯にDistrict of Columbia(コロンビア特別行政区)を設置することとした。一方、ウィスキーへの課税は、西部ペンシルベニアの農民の怒りを招き、納税拒否運動が起きた。ワシントンは、これに対して断固たる態度をとり、軍隊を派遣したところ、運動は雲散霧消した。また、外交面では、フランス革命に際しては、国力の弱いアメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれる避けるため中立を宣言し、英仏双方との貿易関係を保ったが、イギリスはこれを不服としてアメリカ商船の拿捕などの行動に出たため、ワシントンは、イギリスとの関係改善を優先させ、最高裁長官であったJohn Jay(ジョン・ジェイ)をイギリスに派遣し、Jay’s Treaty(ジェイの条約)を結ばせた。この条約により、イギリスに五大湖周辺から兵の撤退を約束させ、カナダとの国境を画定させるとともに、イギリス植民地との貿易の制限を解除させ、独立戦争時の債務問題を解決した。ワシントンは、3選出馬の期待の声を押し切って大統領2期で引退することを決め、離任の演説で、党派活動への警告、外国との恒久的な同盟関係の忌避を呼びかけた。大統領離任後は、マウント・ヴァーノンに戻り、かねてからの希望であった農場経営に専念し、1799年12月14日、67歳でこの世を去った。独立戦争時の騎兵隊長でワシントンの親友であった
Henry Lee(ヘンリー・リー)下院議員は、ワシントンの人生を評して、”First in war, first in peace, and first in the hearts of his countrymen” (戦いに1番、和平に1番、国民の心に1番であった)と述べた。
ワシントンの逝去直後から、建国の祖ワシントンに捧げる記念碑の話が持ち上がった。後に最高裁長官を務める
John Marshall(ジョン・マーシャル)下院議員は、首都ワシントンに大理石の記念碑を建てそこをワシントンの永眠の地とすることを提案した。その後もワシントンの墓の提案は持ち上がるが、ワシントンの遺族の反対により実現しなかった。1833年になり、各地でのワシントン記念碑の建設に触発され、Washington National Monument Society(ワシントン国立記念碑協会)が設立され、募金活動が始まった。1836年にはデザイン・コンペが行われ、ワシントンの財務省、特許庁、郵便局などのデザインで知られる
Robert Mills(ロバート・ミルズ)の
作品が選ばれた。1848年の独立記念日に工事が開始され、156フィート(47m)の高さまで建設が進んだが、1858年に資金が底をつき、建設は中断された。その後、南北戦争の混乱で、そのまま放置された。アメリカ創立100周年記念の1876年になり、愛国熱が高まる中、ワシントン記念碑の建設続行の要望が強まり、議会は国費で建設を続行することを決めた。1878年に工兵隊の
Thomas Casey(トーマス・ケーシー)中佐の指揮の下、デザインをより簡素にして、建設が再開された。1884年12月に尖塔の頂上の冠石が据えられ、アルミのピラミッドがその上に置かれた。555フィート(170m)の記念碑が完成した。8万トンの石が使用され、エッフェル塔が完成するまでは世界一高い建築物であった。ワシントン記念碑の献呈式は1885年2月21日、ワシントンの誕生日に行われた。
ワシントン記念碑
ワシントン記念碑には、エレベーターが設置されており、70秒で高さ500フィート(150m)の展望台まで運んでくれる。かつては896段の階段を登る必要があった。記念碑の内側には、各州や外国などから寄付された記念石が用いられている。これは1848年のワシントン国立記念碑協会の呼びかけに応じて集められたものが始まりで、その土地の石で横4フィート(1.2m)、高さ2フィート(0.6m)、厚さ18インチ(54cm)との決まりがある。その中には日本からの石や沖縄からの石が含まれている。日本からの石は、1853年に伊豆の下田から運び出されたものである。沖縄からの石は、1989年のものだ。展望台からは、議事堂や
リンカーン記念碑がよく見える。
(国立公園局のHP)