Franklin Delano Roosevelt(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領は、アメリカで最も長い任期(4期)選ばれた大統領であり、大恐慌、第2次世界大戦という世界的にも最も困難な時期のアメリカを導いた大統領である。また、ルーズベルトは、ポリオで下半身麻痺となった障害者の大統領でもあり、福祉の充実にも力を注いだ大統領でもあった。名前の頭文字をとってFDRと呼ばれる大統領を讃える記念碑がワシントンDCの春の桜で有名なTidal Basin(タイダル・ベイズン)沿いに建てられている。
Lawrence Halprin(ローレンス・ハルプリン)が手がけたFranklin Delano Roosevelt Memorial(フランクリン・デラノ・ルーズベルト記念碑)は、他の大統領の記念碑と異なり、ストーリー仕立ての記念碑となっている。オープンスペースに間仕切りがなされ、5つの部屋で記念碑が構成されており、これらの部屋には、大統領就任前と各任期を代表するモチーフが施されている。また、他の記念碑とは異なり、身体障害者であった大統領の記念碑であることを反映してレリーフには点字が施されている。また、大統領夫人、愛犬の銅像も置かれている点も珍しい。
大統領就任前を表すPrologue Room(前章の部屋)が記念碑の入口に当たり、ここには車椅子姿の大統領の像が置かれている。39歳のときにポリオを発病し、下半身の自由を失うが、不屈の精神で政治的に復権し、ニューヨーク州知事、さらには大統領に当選した。ルーズベルトの公約は、"I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people."(私は皆さんに約束します。私はアメリカの人々のためにニューディールを行うことを約束します。)であった。その公約のとおり、大統領は当選するとニューディール政策と呼ばれる経済・社会政策を実施していく。
第1の部屋は、大統領1期目を体現した部屋である。ルーズベルトが大統領に就任した1933年は大恐慌が最もひどい年であった。銀行は次々と倒産し、工業生産量は半分に落ち込み、労働者の4人に1人は職がなく、200万人もの人がホームレスとなり、多くの国民がその日の食事さえままならない状況にあった。この部屋のまっすぐ落ちる
滝は大恐慌を暗示している。就任式が行われた3月4日は、まさに銀行の取り付け騒ぎが起きている真最中であった。ルーズベルトは”the only thing we have to fear is fear itself.”(我々が恐れなければならないのは、恐れそのものだけである。)と訴えた。この言葉が第1の部屋に刻まれている。
ルーズベルトは、議会と協力し、New Deal(ニュー・ディール)と呼ばれる大恐慌対策の政策を次々と打ち出していった。ルーズベルトは、就任式の翌日銀行の一時閉鎖を実施し、パニックを抑えた。続いて、前任者のフーバーの対策をさらに拡大して、Emergency Relief Administration (緊急救済局)をFederal Emergency Relief Administration(連邦緊急救済局)に衣替えし、州などを通じた公共事業を拡大した。さらにPublic Works Administration(公共事業局)やTennessee Valley Authority(テネシー峡谷開発公社)を創設して直轄の公共事業も大幅に増加させた。また、アルファベット官庁と呼ばれるCivilian Conservation Corps(CCC:市民環境保全部隊)やAgricultural Adjustment Administration(AAA:農業調整局)を創設し、若者に環境保全事業の職を与え、農業の生産調整を行った。Reconstruction Finance Corporation(復興金融公社)を創設して産業界への資金供給を行い、Securities and Exchange Commission(証券取引委員会)を創設して株式市場の監視を強化し、住宅・農業ローンの支払いを支援し、禁酒法を撤廃して酒税収入を回復させた。国民はこれらのルーズベルトの政策を支持し、中間選挙で民主党議員を大量に当選させた。ルーズベルトは、1935年にも、Works Projects Administration(雇用促進局)を創設して積極的に職を失業者に与え、年金、雇用保険を創設するなど、対策の拡充を行った。
第2の部屋は、大統領2期目を体現した部屋である。2期目は、1期目の対策を継続するとともに、新たにU.S. Housing Authority(米国住宅公社)を設立して低所得者向け住宅建設の補助を行うとともに、最低賃金を確立した。しかし、1937年には再び景気が減退し、公共事業のさらなる拡大を行った。この部屋の重層的な滝は、テネシー峡谷開発公社によるダムの整備を意味している。また、この部屋には大恐慌の最中の絶望と希望の入り混じった状況を表す彫刻が置かれている。中でも印象的なのはGeorge Segal(ジョージ・シーガル)のパンを求める人々の像である。その他、農家の夫妻、大統領のFireside Chat(炉端話)と呼ばれた
ラジオ放送を聞く人の彫刻が置かれている。
ブロンズのパネルは、ニューディールの様々な経済・社会政策を表している。この頃、外交面は風雲急を告げようとしていた。ドイツではヒットラーが台頭し、イタリアではムッソリーニが台頭していた。日本は中国に侵攻した。アメリカ国民は中立の立場を支持したが、1939年のドイツのポーランド侵攻によって第2次世界大戦が始まると、ルーズベルトはいずれイギリス、フランスなどを支援せざるをえなくなると考え、軍の増強を進めた。1940年のパリ陥落によって世論は大きく連合国支援に傾き、ルーズベルトは、Arsenal of Democracy(民主主義の武器庫)としてLend-Lease Act(武器貸与法)に署名し、イギリス、中国などの支援に踏み切った。「民主主義の武器庫」はこの部屋の壁に刻まれている。

パンを求める人々の像
第3の部屋は、第2次世界大戦に明け暮れる大統領第3期目を体現した部屋である。この部屋の滝は、堤防が決壊したような
滝となっているが、これは第2次大戦による混乱を示唆している。ルーズベルトは、どの国の人々も4つの自由、すなわち表現の自由、宗教の自由、飢餓からの自由、恐怖からの自由を享受すべきであるとして枢軸国に対する連合国の支援の必要性を国民に呼びかけた。ルーズベルトの戦争はしない中立政策は、間もなく変更を余儀なくされた。1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃、12月11日のドイツ、イタリアによるアメリカへの宣戦布告は、アメリカを第2次世界大戦の場に引きずり込んだ。ルーズベルトの下、アメリカは戦争遂行にフル稼働となった。ルーズベルトは、イギリス首相チャーチル、ソ連のスターリン、中国の蒋介石と連絡を取りあい、連携を深めていった。連合軍は、1942年11月に北アフリカに侵攻し、翌年にはシチリア島上陸、イタリア占領を進めた。1944年6月6日にはノルマンジー上陸作戦を決行し、ドイツを追い詰めていった。太平洋戦線でも1942年6月のミッドウェイ海戦を境に形勢は逆転し、日本軍を追い詰めていった。ルーズベルトは、衰える身体に鞭を打ってカイロ、テヘランと関係国首脳と戦後体制について協議を行った。この部屋には、Neil Estern(二―ル・エスターン)の制作したルーズベルトと愛犬Fala(ファラ)の像を見ることができる。

ルーズベルトとファラ
第4の部屋は、大統領の4期目を体現している。ルーズベルトは、ヤルタ会談から帰国後、ジョージア州のWarm Springs(ウォーム・スプリングス)で静養中に脳溢血で倒れ、帰らぬ人となってしまう。この部屋には、ルーズベルトの死を暗示するプールとルーズベルトの葬儀の様子を描いた
レリーフが置かれている。そして
この部屋の滝は、大統領の人生を振り返る意味が込められている。また、
エレノア・ルーズベルト大統領夫人の銅像が置かれ、ルーズベルトの死後、国連創設や国連人権宣言の採択に努めたエレノアを讃えている。

エレノア・ルーズベルト
出口のところには、ルーズベルトが提唱した4つの自由が壁に刻まれている。この4つの自由は、ルーズベルトが掲げたアメリカ自由主義を体現する言葉として今も人々の胸に刻まれている。

4つの自由
(国立公園局のHP)