Fredericksburg and Spotsylvania National Military Park(フレデリックスバーグ&スポッツィルベニア国立軍事公園)は、南北戦争における
ゲチスバーグの戦い前後の4つの戦いの戦場を保存する公園である。前半の2つ、Battle of Fredericksburg(フレデリックスバーグの戦い)とBattle of Chancellorsville(チャンセラーズビルの戦い)は、南軍のArmy of Northern Virginia(北ヴァージニア軍)を率いるRobert E. Lee(ロバート・E・リー)将軍の鮮やかかつ大胆な戦略により、兵力において圧倒的に劣る南軍が北軍に勝利し、メリーランド、ペンシルベニア侵攻への糸口をつかむ戦いである。後半の2つ、Battle of Wilderness(ウィルダネスの戦い)と Battle of Spotsylvania Court House(スポッツィルベニア裁判所の戦い)は、新たに北軍総司令官に就任したUlysses S. Grant(ユリシーズ・S・グラント)将軍によって南軍が追い詰められていく戦いである。いずれもフレデリックスバーグという北ヴァージニアにおける交通の結節点の周辺で戦われた戦いである。
1.フレデリックスバーグの戦い(1862年12月13日)
アンティータムの戦いで兵力の1/3を失った北ヴァージニア軍は、ポトマック川を越えてヴァージニアに退却したが、同様に大きな損失を被った北軍のArmy of the Potomac(ポトマック川軍)を率いる
George McClellan(ジョージ・マクレラン)将軍は、リンカーンの追撃命令を無視し、兵を休ませ、兵站の補給を優先させたため、リンカーンはマクレランが慎重に過ぎるとして1862年11月5日に更迭した。このときの解任劇が尾を引き、1864年の大統領選挙でマクレランは民主党候補としてリンカーンと対決することとなる。リンカーンが代わりに司令官に選んだのは、
Ambrose Burnside(アンブローズ・バーンサイド)少将であった。バーンサイド将軍は、兵士思いの将軍として知られ、兵士の人気は高かった。彼の独特のもみあげスタイルから、バーンサイドをもじったsideburnはもみあげを意味する言葉として使用されるようになった。
バーンサイドは、リンカーンからリー追撃の強い命令を受け、直ちにポトマック川軍を南進させた。バーンサイドの作戦は、ヴァージニア中央部を進軍すると見せかけて、12万の兵を南東に向け、
Rappahannock River(ラパハノック川)を渡り、フレデリックスバーグを襲い、そのまま鉄道ルートに沿ってリッチモンドに南進するというものであった。ポトマック川軍の前進部隊は、11月17日にラパハノック川にたどり着いたが、川を渡れなかった。ラパハノック川は川幅の広い川であるために渡るにはpontoon bridge(ポントゥーン橋)と呼ばれる仮設の橋を設けて渡る必要があったが、橋が届いていなかったのである。橋がなくては川を渡れないため、ここで北軍は足止めを食う。そのうちに11月21日には、南軍の前進部隊がフレデリックスバーグに到着した。北軍は橋を待っている間に次々と7万8千の南軍の部隊は到着し、フレデリックスバーグの西側の高地を押さえ、塹壕を築いた。北軍も来る侵攻に備え、大規模な砲術部隊を配置した。12月11日になり、ようやく橋の設置準備が整ったが、南軍の狙撃兵が設置工事を行う兵士を狙撃し、工事は進まなかった。北軍は夜間掃討部隊を送り、対岸の安全を確保して架橋を行った。
バーンサイドの本陣が置かれたChatham House(チャタム・ハウス)
12月13日朝、濃い霧が立ち込める中、北軍の
William Franklin(ウィリアム・フランクリン)少将の部隊はラパハノック川を渡り、南軍右翼の
Thomas “Stonewall” Jackson(トーマス・ストーンウォール・ジャクソン)中将の部隊を襲った。しかし、
George Meade(ジョージ・ミード)准将率いる師団が一瞬ジャクソンの部隊のラインを割るが、高地から応戦するジャクソンの部隊に進撃を阻まれ、押し返されてしまった。戦いの中心は、フレデリックスバーグの街の西側にあるMarye’s Heights(マリーズ高地)を巡る攻防に移った。南軍は、
James Longstreet(ジェームズ・ロングストリート)の部隊が高地に重火器を揃え、かつ麓にある高さ4フィート(1.2m)の石垣に2重の狙撃兵を配置して待ち構えていた。北軍がマリーズ高地の麓に到達するためには、用水路にかかる2本の橋を渡らなければならず、それを越えてもオープンのなだらかな坂を進まなければならなかった。南軍兵士が「ニワトリですら生きていられない」と言ったほど、格好の狙撃の対象となった。
Joseph Hooker(ジョセフ・フッカー)少将率いる北軍は14度に渡る波状攻撃を繰り返したが、全て撃退され、6,300の死傷者が折り重なり、完全に失敗に終わった。(部隊の配置は、
ここを参照。)
今も残る当時の石垣
翌日、両軍はにらみ合ったまま、散発的な銃撃を交わした。北軍の多くの兵士が負傷したまま、マリーズ高地の前に置き去りにされていた。水を欲しいとの北軍兵士の叫びに応じてサウスカロライナ出身のRichard Kirkland(リチャード・カークランド)は、命を賭して、石垣を乗り越え、敵の兵士に水を与えた。北軍兵士はカークランドの近辺に射撃を加えたが、しばらくして彼の意図に気がつき、攻撃を止めた。カークランドはこの勇敢な行為が双方に讃えられ、マリーズ高地の天使と呼ばれるようになった。一方、バーンサイドは北軍の惨状に泣きながら自ら部隊を率いて攻撃を仕掛けると主張したが、周りに諌められ退却することを決意した。北軍の死傷者は、南軍の死傷者5,300の倍以上の13,000であった。その夜は、非常に冷え込み、空にはオーロラが出たという。ポトマック川軍は、15日夜にラパハノック川を渡り撤退した。
カークランド記念碑
2.チャンセラービルの戦い(1863年5月1日-5月3日)
リンカーンは、バーンサイドをオハイオ川軍に異動させ、代わりにジョセフ・フッカー少将をポトマック川軍の司令官に昇格させた。フッカーは、Fighting Joe(戦うジョー)の異名をとる好戦的な将軍で、酒と女性を好み、酒と女性には寛容な態度をとったことから、フッカーの部隊の周辺からは売春婦が離れなかった。このことから、今でも売春婦はスラングでhooker(フッカー)と呼ばれている。フッカーは、兵士と兵站の補充を行い、部隊の再訓練を行い、勝利の自信でみなぎっていた。そして”May God have mercy on General Lee, for I will have none.”(神がリー将軍に慈愛を示されるように。というのも私には慈愛はないだろうから。)と言い放ったと言われる。
フッカーは、13万4千人に増強したポトマック川軍を2つに割き、
John Sedgwick(ジョン・セグウィック)少将率いる3万の兵にフレデリックスバーグを襲わせ、南軍の兵力をそちらに向かわせたところ、本隊が南軍の後ろに回りこみ、撃破するという作戦を立てた。フッカーは、4月27日に作戦行動を開始した。リーは、ロングストリートの兵団をNewport News(ニューポート・ニュース)の防衛に割かなければならなかったことから、兵力がわずか5万強に落ちていた。しかし、リーは、フッカーのフェイント作戦を見抜き、
Jubal Early(ジュバル・アーリー)少将の下、1万の兵をフレデリックスバーグのマリーズ高地に向かわせ、一方で本隊は背後を襲わせないように西にずれ、フッカーの部隊を攻撃することとした。(部隊の配置は
ここを参照。)
5月1日、ジャクソン将軍の部隊がチャンセラーズビルで北軍左翼を攻撃した。予期しなかった攻撃にフッカーは驚き、作戦を変更し、兵を集中させ、防御の体制をとるように命じた。リーは、その夜、南軍騎兵隊長の
Jeb Stuart(ジェブ・スチュアート)の情報により、北軍の右翼ががら空きであることを察知した。リーとジャクソンはかけに出ることにした。二人の合意した作戦は、ただでさえ北軍の半分以下の4万の南軍を2つに割き、ジャクソンが26,000の兵を率いて深い森の中を12マイル(19km)の行軍を行い、大回りをして北軍の右翼を突くという大胆な作戦であった。
5月2日、ジャクソンは夜明けとともに大迂回を開始した。南軍の部隊が動いているという報告は、フッカーに伝えられたが、フッカーはリーが兵力の差に恐れをなして退却を始めたものと考えた。夕方、ジャクソンの部隊は、一斉に北軍の右翼に襲い掛かった。北軍右翼は大混乱に陥り、軍の中心に向けて退却を始めた。これを南軍が追ったが、深い森と迫りくる日没に阻まれ、完全には追い詰め切れなかった。
ジャクソン攻撃開始位置
ジャクソンは、夜間の攻撃を行うため、わずかの部下を連れ、前線まで敵情偵察に出向いた。そのとき、北軍狙撃兵が発砲したため、引き返そうとしたところ、南軍兵士がジャクソンらを敵と間違え、射撃した。ジャクソンは、左手を負傷し、野戦病院に運ばれたが、重傷で左手切断を免れ得なかった。ジャクソンの戦線離脱は、リーに大きな衝撃を与えた。リーは、”He has lost his left arm, but I have lost my right”(彼は左腕を失ったが、私は右腕を失った。)と嘆いた。
ジャクソン狙撃現場
翌日も、南軍は左右から北軍を押し続けた(部隊の配置は
ここを参照。)。ジャクソンの後を受けた
A.P. Hill(A.P.ヒル)少将も負傷で戦線離脱し、ジャクソンの歩兵部隊を騎兵隊長のスチュアートが指揮した。スチュアートは攻撃の手を緩めず、北軍に対する包囲網を縮めていき、リーの本隊と合流した。北軍本隊は完全に戦意を喪失し、フレデリックスバーグのセグウィックに応援を求めた。セグウィックの部隊はアーリー率いる南軍の防御網を突破した。リーは、スチュアートの部隊を残して、アーリーの応援に部隊を割き、セドグウィックの部隊の前進をストップさせた。このときには、フッカーの本隊は退却を始めていた。5月5日は、セグウィックの部隊も退却を開始した。6日には北軍は戦場から姿を消した。兵力が北軍の半分にも満たなかった南軍の圧倒的な勝利であった。
リーは戦いには勝利したが、大きな犠牲を払った。ジャクソン将軍は、左手切断の後、肺炎を引き起こし、5月10日、帰らぬ人となってしまった。ジャクソンの喪失は、一将軍を失った以上の戦力ダウンを南軍にもたらすこととなる。
ジャクソンが亡くなった家
3.ウィルダネスの戦い(1864年5月5日-6日)
リンカーンは、1864年3月12日、西部戦線からグラント将軍を引き抜き、北軍全体の総司令官に任命した。 グラントはゲチスバーグの戦いで敗れたリー率いる北ヴァージニア軍を壊滅させることが戦争を終わらせる道であると考え、南軍を物量で圧倒し、リーの北ヴァージニア軍を消耗させる作戦をとることとした。グラントのOverland Campaign(陸路方面作戦)の始まりである。
1864年5月2日、グラントの総指揮の下、ミード少将率いる10万のポトマック川軍は、Rapidian River(ラピディアン川)を渡り、ウィルダネスと呼ばれる鬱蒼とした森が70平方マイル(181平方キロ)も広がる場所を目指した。兵力が6万しかないリーは、鬱蒼とした森に北軍の重火器の使用が限定されることを狙い、この場所で北軍を待ち受けた。
5月5日、両軍は激突した(部隊の配置は
ここを参照。)。南軍左翼の
Richard Ewell(リチャード・イーウェル)中将の部隊に北軍右翼の
Gouverneur Warren(グーブナー・ウォーレン)少将の部隊がぶつかり、南軍右翼のヒル中将の部隊に北軍左翼の
Winfield Hancock(ウィンフィールド・ハンコック)少将の部隊がぶつかった。激しい銃撃戦となり、鬱蒼とした森に煙が立ちこめ、両軍とも右も左も判別が不能なほどであった。あちこちで火災が発生し、そのために多くの兵士が犠牲となった。
戦場の様子
翌日、北軍は南軍右翼のヒルの部隊に兵力を傾けた。2万のヒルの部隊は4万のハンコックの部隊の攻撃を受け、崩れかけたそのときであった。ロングストリートの応援部隊2万がウィルダネスに到着し、ハンコックの部隊を押し返した。しかし、この反攻の中、ロングストリートは味方の放った弾に当たり負傷してしまう。(部隊の配置は
ここを参照。)
ロングストリート負傷現場
2日間の戦闘を終え、南軍の死傷者1万に対して、北軍の死傷者は1万8千を数えた。これまでの北軍の司令官であれば、この時点で建て直しのため、一時撤退を命令しただろうが、グラントは違った。戦うことを止めなかった。グラントは、南軍の右翼に回りこみ、リッチモンドと北ヴァージニア軍との間に割って入り、リーが南下して再びグラントと一戦交えざるを得なくなるよう兵を動かした。リーは、グラントの指示を察知し、次の交通の要所、Spotyslvania Court House(スポッツィルベニア裁判所)のあるところまで兵を先回りさせた。
4.スポッツィルベニア裁判所の戦い(1864年5月10日-21日)
リーは、スポッツィルベニアで塹壕を築き、防御線を張るように命じた。南軍は、逆Vの字型に陣地を築き、北軍の到着を待った。この陣地は、Mule Shoe(ラバの蹄鉄)と呼ばれた。5
月9日、敵陣を視察中のセグウィック少将は南軍の狙撃兵により射殺されてしまった。翌10日、北軍の攻撃は始まった。(部隊の配置は
ここを参照。)ラバの蹄鉄には弱点が1箇所あった。逆Vの字の突端の突き出た部分であった。北軍はこれを見抜き、10日の戦闘で、一時この部分を突き破った。南軍がこれへの対処をする間もなく、12日グラントは、ハンコック率いる2万の部隊に再び同じ箇所を襲わせた。(部隊の配置は
ここを参照。)再び逆Vの字の突端が破られた。リーは、他の箇所から兵士をかき集め、北軍の突撃を押し返そうとした。降りしきり雨の中、両軍で激しい銃剣を用いた戦闘が20時間も続いた。ここは後にBloody Angle(流血のアングル)と呼ばれるようになった。13日未明になり、ようやく南軍は北軍をラバの蹄鉄から押し戻した。リーは、背後の第2次塹壕に兵を転進させた。18日、グラントはこの第2次塹壕に攻撃を仕掛けるが、手厚い南軍の防備に跳ね返された。スポッツィルベニアでの南軍の死傷者1万3千に対して、北軍の死傷者は1万8千に上った。しかし、グラントはこれにひるむことなく、21日には、グラントは、再び南軍の右に回り込もうと部隊を動かし、これを防ごうとリーは先回りすべく部隊を南下させた。
流血のアングル
この間、南軍はまた有能な将校を失う。リーの耳と目の役割を果たしてきた騎兵隊長のスチュアートは、5月11日リッチモンドに向かった
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将率いる北軍騎兵部隊1万の部隊を食い止めようとし、Yellow Tavern(イエロー・ターバン)で致命傷を負い、翌日死亡した。スチュアートは、リーがウェスト・ポイントの校長であったときの教え子であっただけに、最も有能な騎兵隊長を失う以上の悲しみをリーにもたらした。
南軍が塹壕に立て籠もり、防御戦を戦うため、北軍が南軍の右に回り込もうとし、南軍はこれを防ぐために先に南下し、北軍を待ちうけ、一戦を交える。この動きが何度となく繰り返されるうち、リーの南軍は、他の方面からの応援部隊を加えても消耗が激しく、徐々にリッチモンドに追い詰められていくこととなる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)