Richmond(リッチモンド)でグラントの軍に包囲されたリーは、大胆な作戦を考え付いた。それは、2倍以上の北軍に囲まれていながら、50,000の南軍の一兵団を割き、シェナンドア・ヴァレー、さらにはワシントンの背後に部隊を派遣し、撹乱することで、リッチモンドにおける北軍の勢力を割かさせ、南軍への圧力を弱めさせるというものであった。このために、リーは、1864年6月12日、
Jubal Early(ジュバル・アーリー)中将に8,000の兵を持たせ、北上させた。
アーリーの部隊は、途中
John Breckinridge(ジョン・ブレッキンリッジ)少将の兵とLynchburg(リンチバーグ)で合流して14,000にまで膨れ上がり、シェナンドア・ヴァレーを駆け上がり、1864年7月5-6日にポトマック川を渡って、メリーランドに侵入した。アーリーは、7月8日にFrederick(フレデリック)の町を包囲し、攻撃を加えない代償として20万ドル要求し、これをものにした。南軍の北上の情報は、ボルティモア=オハイオ鉄道の職員によってグラントにもたらされた。ワシントンまでの途中には、
Lew Wallace(リュー・ワラス)少将の部隊2,300しかいなかった。グラントは直ちに、
James Rickett(ジェームズ・リケット)准将の師団5,000を差し向け、追って
Horatio Wright(ホレイシオ・ライト)少将の第6兵団を派遣した。ワラスは、アーリーがワシントンを目指しているのか、ボルティモアを目指しているのか明らかではなかった。このため、リケットの師団と合流し、ボルティモアとワシントンへの分岐点に当たるメリーランド州のフレデリックの郊外のMonocacy Junction(モノカシー・ジャンクション)で南軍を待ち伏せることとした。
両軍は、7月9日、モノカシーで激突した。まず南軍
Dodson Ramseur(ドドソン・ラムサール)少将率いる師団が北軍の前進部隊と衝突した。続いて、アーリーは、John McCausland(ジョン・マッコースランド)准将の騎兵隊にモノカシー川を渡らせ、ワレス軍の左翼を攻撃させた。そこにはリケットの師団が待っていて、Worthington Farm(ウォーシントン農場)とThomas Farm(トーマス農場)の間で激しい戦闘となった。
ウォーシントン農場
南軍は、さらにリケット師団の左翼に
John B. Gordon(ジョン・B・ゴードン)少将の師団をぶつけた。圧倒的に数で劣る北軍はたまらず、ボルティモアに向かって退却を始めた。
戦闘の激しかった場所(林の向こうが南軍がモノカシー川を渡った場所)
戦いは南軍の勝利であったが、アーリーはここで1日費やしてしまった。翌日、南軍はワシントンに向けて進軍し、ワシントン防衛網の一つ
Fort Stevens(スティーブンス砦)の前に到着した。しかし、そこには、1日の差でライト少将の第6兵団が到着しており、北軍と南軍との力関係は逆転してしまった。翌日、アーリーは、スティーブンス砦を攻撃するが、堅固な防御を前に、これを落とすことは不可能と判断し、兵を引き揚げた。このとき、リンカーンがスティーブンス砦に状況視察に来て、砲台に登り、南軍の様子を見ようとしたところ、南軍の狙撃兵から攻撃を受け、隣に立っていた医務官に当たり死亡してしまった。その場に居合わせこの様子を見た若きOliver Wendell Holmes, Jr(オリバー・ウェンデル・ホルムズ・ジュニア)がリンカーンに向かって「ばかやろう、頭を下げろ」と言ったという話が残っている。ホルムズは、後に最高裁判事として活躍する。また、対峙する南軍のブレッキンリッジ少将は、1860年の大統領選挙で南部民主党の候補としてリンカーンと争った人物で、大統領選挙の対立候補が戦場で対峙した唯一の例となったという。これも後日談だが、モノカシーで北軍を率いたワラスは、後に小説ベンハーでベストセラー作家となる。
1日の差でワシントン攻略を逃したアーリーは、ライト師団の追撃を振り切り、シェナンドア・ヴァレーに引き揚げるが、グラントはアーリー追討のため、さらに
Philip Sheridan(フィリップ・シェリダン)少将に4万の兵を与えて、Army of the Shenandoah(シェナンドア川軍)を組織させ、シェナンドア・ヴァレーに向かわせた。そしてアーリーとシェリダンは、シェナンドア・ヴァレーでまみえ、
Ceder Creek(セダー・クリーク)で最後の決戦に挑むこととなる。
(国立公園局のHP)