アメリカの大統領の履歴を見ると、名門中の名門の家系というより、意外と普通の人が選ばれている気がする。第34代大統領
Dwight David Eisenhower(ドワイト・デービッド・アイゼンハウアー)もその一人である。小学校のときからIke(アイク)の愛称で知られ、飾らない素朴な人柄は、連合軍総司令官になり、大統領になっても変わらなかったという。1942年にアイゼンハウアー将軍付きとなったJohn Moaney(ジョン・モーニー)軍曹は、第2次世界大戦終了後も、アイゼンハウアーの個人スタッフとして生涯仕え続けた。アイゼンハウアーが引退後住んだ農場がペンシルベニア州の、あの
ゲチスバーグにある。
アイゼンハウアーは、1890年10月14日、オクラホマ州との境にあるテキサス州Denison(デニソン)に父David(デービッド)と母Ida(アイダ)の3男として生まれた。後に大統領となるが、テキサス生まれの最初の大統領となる。その翌年、家族はカンサス州に移り住み、アイゼンハウアーはカンサスの小さな町Abilene(アビリーン)で育った。1911年に、地元の高校卒業後、文武両道であったアイゼンハウアーは、無料で高等教育を受けられるウェスト・ポイントの陸軍士官学校に入学した。1915年に陸軍士官学校を卒業したアイゼンハウアーの最初の赴任地は、テキサスのFort Sam Houston(サム・ヒューストン基地)であった。ここで
Mamie Geneva Doud(マミー・ジェニーバ・ダウド)と出会い、1916年に二人は結婚した。
1917年にアメリカが第1次世界大戦に参戦すると、アイゼンハウアーは戦地派遣を希望したが、ペンシルベニア州ゲチスバーグのCamp Colt(キャンプ・コルト)で、戦車兵団の訓練に従事した。アイゼンハウアーは、この歴史ある緑豊かな町を気に入り、引退後再びここに住みたいと思うようになる。終戦後、各赴任地を転々としながら、1920年には少佐に昇任した。この間、1919年には、大陸横断陸上輸送に参加し、これが惨憺たる結果に終わったことから、大陸横断可能な道路インフラの重要性を認識するに到った。1921年には長男を病気で亡くす不幸にも遭っている。1926年にカンサスにある1年間のCommand and General Staff School(陸軍指揮・幕僚学校)を首席で卒業し、第1次世界大戦の英雄
John Pershing(ジョン・パーシング)将軍の下でAmerican Battle Monuments Commission(アメリカ戦闘記念碑委員会)に勤務し、第1次世界大戦を研究する機会に恵まれた。1929年には戦争次官補のGeorge Mosley(ジョージ・モズリー)将軍のオフィスで勤務となった。1933年からは
Douglas MacArthur(ダグラス・マッカーサー)将軍の首席補佐官、さらに1935年からはマッカーサーに随行し、フィリピン政府の軍事顧問補を務めた。1939年にヨーロッパで第2次世界大戦が始まると、アイゼンハウアーはフィリピンから呼び戻され、部隊付きの参謀を経験の後、ワシントンに呼ばれ、戦争省で計画課太平洋防衛主任、計画担当参謀長補佐を歴任した。
George Marshall(ジョージ・マーシャル)将軍の下でオペレーション担当参謀長補佐を務め、マーシャルに認められ、以後出世階段を駆け上っていく。1942年6月にアイゼンハウアーは欧州戦線司令官に着任し、11月には連合軍北アフリカ最高司令官に任命された。そして1943年12月には、ノルマンジー上陸作戦を指揮する連合軍最高司令官に任命された。
その後は歴史が物語るとおり、1944年6月6日に決行されたノルマンジー上陸作戦を成功させ、戦争の潮目を大きく変え、12月には陸軍元帥に任命され、終戦までヨーロッパ戦線の最高司令官を務めた。終戦後は、ドイツのアメリカ占領地域軍政長官、さらには陸軍参謀総長を歴任した。国内で高まる大統領出馬人気をよそに、1948年にコロンビア大学の総長に就任した。その後は引退を考え、1950年にかつて勤務地であったゲチスバーグに189エーカー(76ha)の農場を購入したところ、
トルーマン大統領からNATO最高司令官に任命された。そして1952年の大統領選挙では、日に日に高まる出馬要請を断りきれず、共和党から出馬し、
タフト大統領の息子である民主党の
Robert Taft(ロバート・タフト)を破り、第34代大統領に就任した。
ゲチスバーグの自宅
アイゼンハウアーが大統領であった時期はソ連との冷戦の絶頂期であった。選挙公約であった朝鮮戦争を終結させたが、封じ込め政策に従い、世界各地で共産圏の勢力拡大に神経を尖らせた。核の均衡の理論の下、核兵器の増強も盛んに行われた。大陸弾道弾の試験が行われ、ソ連のスプートニク号の成功に対抗するためNASAが設立された。フルシチョフとの会談を契機に軍縮の動きもあったが、CIAの偵察機U2が偵察中にソ連のミサイルに打ち落とされるという事件により、ソ連の態度を硬化させてしまった。国内では、人種隔離政策の撤廃を支持し、南部諸州と衝突することもあった。軍人時代の経験に基づき、インターステート・ハイウェイ網の構築に尽力した。社会政策では、厚生・教育省の設立、最低賃金の引き上げなど、社会保障の充実路線を推進した。
大統領時代は、週末友人をゲチスバーグの農場でもてなした。世界のリーダーが訪問すると、キャンプ・デービッドで会談を行った後、ゲチスバーグの農場を案内するのが慣例となった。1955年に心臓発作に見舞われたときは、一時ゲチスバーグの農場で執務を行った。時間があるときは、ゲチスバーグの農場では、アンガス牛の飼育状況を見回ったり、ゴルフ、スキート射撃などを楽しんだ。1961年に2期の任期を満了し、ゲチスバーグの農場に引退してからは、回想録の執筆を行う傍ら、趣味の絵画、読書などを楽しんだ。ゲチスバーグの家の中では、ポーチがお気に入りで、ここでゆっくり朝食を楽しむのが好きであったという。このゲチスバーグの農場は生前の1967年に国立公園局に寄付され、アイゼンハウアー夫妻の死後、一般に公開されることとなった。軍人生活を送ったアイゼンハウアー夫妻は、引退するまで転勤生活の連続であった。やっと落ち着くことができた我が家は、アイゼンハウアー夫妻にとって生涯で唯一の安らいだ生活の場所であったに違いない。
アンガス牛の飼育場
アイゼンハウアー農場へのツアーは、ゲチスバーグのビジターセンターでチケットを購入できる。ゲチスバーグのついでに寄ってみてはいかが。
(国立公園局のHP)