Fort Henry(ヘンリー砦)とFort Donelson(ドネルソン砦)を失った南軍は、ケンタッキー州、テネシー州中部を明渡さざるを得なくなり、ミシシッピー州北部のCorinth(コリンス)で勢力の再結集を図り、巻き返しを図ろうと考えた。南軍の西部戦線司令官
Albert S. Johnston(アルバート・S・ジョンストン)大将は、ここに55,000の兵力を集め、再結集した部隊をArmy of Mississippi(ミシシッピー軍)として再編した。一方、北軍の西部戦線の司令官となった
Henry Halleck(ヘンリー・ハレック)は、グラントのArmy of the Tennessee(テネシー川軍)にテネシー川を遡り、
Don Carlos Buell(ドン・カルロス・ブーエル)少将の率いるArmy of the Ohio(オハイオ川軍)と合流し、ジョンストン率いる南軍を討つように指令した。(ハレックは、グラントのことを快く思っておらず、グラントを解任し、グラントの部下であった
C.F. Smith(C.F.スミス)准将に遠征部隊の司令官を任せようと画策していたところ、リンカーンの介入でグラントが率いることとなったとの経緯がある。)
グラントは、49,000の兵を率いて南に下り、テネシー州南部のミシシッピー州との境に近いShiloh(シャイロー)と呼ばれる場所にあるテネシー川の港Pittsuburg Landing(ピッツバーグ・ランディング)でブーエルを待つこととし、その間を部隊の多くを占める新兵の訓練に充てた。このとき、南軍の攻撃を予想せず、部隊は散らばってキャンプを行い、塹壕建設など防御体制を整えなかったことが後に大きな問題となる。ジョンストンは、北軍に奇襲をかけることを選択し、1862年4月3日、コリンスを出発した。南軍も新兵が多く、進軍が遅い上に敵に動きを察知してくれと言わんばかりの行動をとっていたことから、NO.2の
P.G.T. Beauregard(P.G.T. ビューリガード)大将はいったん遠征を中止することを進言したが、ジョンストンはあくまでも攻撃を指示した。
ピッツバーグ・ランディング
4月6日、ようやく攻撃態勢を整えた南軍は、早朝、無防備な北軍に襲い掛かった。しかし、南軍の攻撃も、散らばった北軍部隊に合わせて部隊を展開したため、部隊間の連携はほとんど困難となり、北軍の左翼に攻撃を集中させ、北軍をテネシー川から切り離し、退路と援軍を断つとの作戦を実施することが困難となった。戦場は混乱を極めたが、南軍の先制攻撃を予想していなかった北軍は驚きと混乱に陥り、新兵の多くは、持ち場を離れ、ピッツバーグ・ランディングに向けて退却を始めた。しかし、混乱の中で、北軍左翼の
W. H. L. Wallace(W. H. L. ワラス)准将と
Benjamin Prentiss(ベンジャミン・プレンティス)准将の師団の一部は、天然のくぼ地(Sunken Road)を塹壕として利用し、南軍が62の重火器による集中砲撃を行うまで7時間も南軍の攻撃を食い止めた。ワラス准将は戦死し、プレンティス准将は捕虜となった。ここはHornets’ Nest(スズメバチの巣)と後に呼ばれるようになり、ここでの奮闘は、グラントに北軍を再結集させる時間的余裕を与えた。
Hornets’ Nest
Sunken Road
ジョンストンは、付近の兵士を結集し、自らこれらの兵を率いて、桃畑(Peach Orchard)に位置する北軍の左翼へ攻撃を仕掛けた。激しい攻撃は桃の花を全て散らしてしまったという。この攻撃の最中、ジョンストンは、膝裏に被弾するが、後方に退くことを拒否し、そのまま指揮をとりつづけたところ、出血多量で亡くなってしまう。
Peach Orchard
ジョンストン将軍記念碑
グラントは、退却してきた兵士を鼓舞し、ピッツバーグ・ランディングの手前に重火器53基を備えて最終防衛ラインを敷いた。ジョンストンの後、指揮を引き継いだビューリガードは、この最終防衛ラインを攻撃するが、跳ね返され、こう着状態になり、夜を迎えた。夜のうちに、ブーエルの18,000の応援部隊が到着した。(ここまでの両軍の配置は、
ここを参照。)
グラントの最終防衛ラインに建つアイオワ記念碑
翌7日早朝、前日の攻勢に勢いを駆って、ビューリガードは、ブーエルの援軍が到着したことを知らずに、北軍に総攻撃を仕掛けた。しかし、55,000に膨れ上がった北軍は、これを跳ね返し、数で劣る南軍をじわじわとシャイロー教会の付近まで押していった。ビューリガードは、Water Oaks Pond(ウォーター・オークス池)で北軍の右翼に反対攻勢をかけ、北軍の進軍を食い止めるが、打ち破るに至らなかった。弾薬も底をつきかけ、ビューリガードはコリンスへの撤退を余儀なくされた。(
両軍の配置は、
ここを参照。)
シャイロー教会
ウォーター・オークス池
シャイローの戦いは、死傷者が両軍あわせて24,000に上り、両軍とも兵力の1/4近くを失う大激戦となった。激戦地となった桃畑の近くの池は両軍兵士の血で染まったため、Bloody Pond(血染めの池)と呼ばれるようになった。このため、シャイローの戦いで勝利を収めたものの、グラントは初日の失敗の責任を責められ、彼を解任すべきとの声が上がった。しかし、リンカーンは、"I can't spare this man; he fights."(この男をはずすことはできない。彼は戦うからだ。)と述べ、グラントを擁護した。だが、この後、グラントはハレックに干されてしまう。北軍は、この間、コリンス、メンフィスに進軍し、テネシー州西半分の支配を確保し、ミシシッピー州侵攻への足がかりを築いた。ハレックは、北軍全体の司令官に登用されてワシントンに赴任し、これによってようやくグラントは復権することができた。グラントの次なるターゲットは、ミシシッピー川を見下ろす要塞都市
Vicksburg(ヴィックスバーグ)を攻略し、ミシシッピー川の航海権を握り、南部を東西に分断することであった。
Bloody Pond
南軍記念碑
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)