1818年の条約でアメリカとイギリスの国境はロッキー山脈までは北緯49度線とされたが、園先のオレゴンは両国の共有となった。オレゴンでは、当初アメリカとイギリスの毛皮商人が商いを行っていたが、1813年以降はHudson’s Bay Company(ハドソン湾会社)がコントロールしていた。毛皮商人は後に
オレゴン・トレールと呼ばれる道を通って、西部へのゲートウェイ、セント・ルイスとオレゴンを行き来したが、彼らによってロッキー山脈の向こうの情報、とりわけキリスト教に接したことのない原住民の情報がもたらされるようになると、東海岸のプロテスタント教会は彼らへの布教に大きな関心をもつようになった。1832年に
ネズ・パース族の酋長がセント・ルイスに住んでいた
ルイス&クラーク探検隊の
William Clark(ウィリアム・クラーク)を尋ねて、アメリカの強さの秘密を知りたいとして聖書を求めるという出来事が起きた。この話にプロテスタント教会は、オレゴンへの布教に益々関心を持つようになった。1834年には、メソジスト派の
Jason Lee(ジェイソン・リー)牧師らが現在のオレゴン州Salem(セーラム)で布教活動を開始した。
1835年にAmerican Board of Foreign Missions(アメリカ外国布教委員会)は、会衆派の
Samuel Parker(サミュエル・パーカー)牧師と長老派の
Marcus Whitman(マーカス・ウィットマン)医師を毛皮商のキャラバン隊とともにオレゴンに派遣して、布教活動の拠点を探らせた。ワイオミングでの毛皮市で出会ったネズ・パース族への感触がよかったことから、パーカー牧師はさらに先に進み、ウィットマンは本格的な布教の準備にいったん戻った。1836年、ウィットマンは、親妻
Narcissa(ナルシッサ)、
Henry Spalding(ヘンリー・スポルディング)牧師とのその妻Eliza(エリザ)、William Gray(ウィリアム・グレー)とともにオレゴンに向けて出発した。ナルシッサとエリザは、オレゴン・トレールで大陸横断をする最初の旅行となり、彼らのワゴンはオレゴン・トレールで大陸横断する最初のワゴンとなった。そしてスポルディング夫妻は、現在のアイダホ州のLapwai(ラプワイ)でネズ・パース族に、ウィットマン夫妻とグレーは、現在のワシントン州の南東部のWaiilatpu(ワイイラップ)でCayuse(カイユース族)にそれぞれ布教を行うこととした。ウィットマン夫妻に続いて、宣教活動の応援部隊も到着し、ワイイラップには教会、製粉所、鍛冶屋などが立ち並ぶようになり、オレゴン・トレールの旅人たちにとっては宿場代わりとなった。
オレゴン・トレール跡
ウィットマンらのカユース族に農業を教えて定住させようとする試みもうまく行かず、カイユース族への布教活動は三歩進んで二歩下がるような状態であったため、アメリカ外国布教委員会は、1842年にワイイラップでの伝道活動の中止を命じた。ウィットマンは、これを翻意させるため、1日平均60マイル(96km)の強行軍で5ヶ月のうちに東海岸まで帰還し、中止命令を撤回させた。ワイイラップへの帰り道は、セント・ルイスから1,000人ものオレゴンへの移民のキャラバン隊の道案内を務めた。この大量の移民は、The Great Migration of 1843(1843年の大移民)と呼ばれ、その後のオレゴン・トレールを利用した開拓者の移民ラッシュの先駆けとなった。ウィットマンの伝道所はオレゴン・トレールの休憩場となった。
伝道所跡
1846年にアメリカはイギリスとの条約により北緯49度以南をアメリカ領として画定した。オレゴン・トレールを利用する開拓者の波は、原住民との軋轢を生むようになり、とりわけ1847年の水疱瘡の流行はカイユース族の人口を半減させてしまった。ウィットマンの治療が開拓民には効くがカイユース族には効かなかったことから、開拓者がカイユース族から土地を奪えるようにウィットマンが毒を盛っているとの疑念をカユース族は抱くようになった。1847年11月29日、悲劇は起きた。カイユース族のグループがウィットマンらの伝道所を襲い、ウィットマン夫妻ら14名を殺害し、50名あまりを人質にとった。人質のうち3名が病気で亡くなり、残りの人々は12月29日にハドソン湾会社が身代品を提供することで帰還することが許された。しかし、カイユース族と開拓民との関係は決定的に悪化し、この後、両者の間で戦闘が繰り広げられることとなった。オレゴン領の議員であり、この事件で娘を失った
Joseph Meek(ジョセフ・ミーク)らは、この惨劇を伝えにワシントンDCに上京し、
James Polk(ジェームズ・ポーク)大統領にオレゴン領設立を要請した。これを受けて、1848年8月14日にオレゴン領が設立された。1850年にウィットマン夫妻ら殺害の罪でカイユース族のTomahas(トマハス)ら5名が新たに保安官に任命されたミークの手によって裁判にかけられ、絞首刑となった。この後、連邦政府とオレゴン領の原住民とは長い戦闘の歴史を迎えることとなる。
ウィットマン夫妻ら14名の墓地
今日、ウィットマンらの伝道所があったWalla Walla(ワラワラ)の町は、最近評価を上げているワシントン・ワインの有名な産地となり、ワイナリーが立ち並び、当時の惨劇は遠い過去になっている。
(国立公園局のHP)