レキシントン=コンコルドの戦いでアメリカ独立戦争の火蓋が切られた際、南部は独立派が多数を占める北部と事情が異なっていた。ノースカロライナでは、富裕な商人や農園主、到着して日が浅いスコットランド出身の移民などは、イギリスに忠誠を誓い、西部に住む開拓民は独立を支持した。ノースカロライナ知事Josiah Martin(ジョサイア・マーティン)は、州都New Bern(ニュー・バーン)を離れて、Fort Johnson(フォート・ジョンソン)に王党派の拠点を構え、奴隷を開放して独立派の討伐に参加させようと企てたが、John Ashe(ジョン・アッシュ)ら独立派の知れるところとなり、アッシュらはフォート・ジョンソンに先制攻撃を仕掛け、マーティン知事を追い出すことに成功した。マーティンは、再び返り咲くことを狙い、ノースカロライナに残る王党派から1万人規模の兵士を募り、イギリス軍と合流させて独立派を叩く計画を立てた。イギリス軍の
William Howe(ウィリアム・ハウ)少将は、これに同意して、
Henry Clinton(ヘンリー・クリントン)少将らに命じて南部一の貿易港であるチャールストン攻略を命じた。1776年2月15日、王党派兵士として集まった数は、スコットランド人部隊を中心とするわずか1,600であった。王党派兵士は、2月20日、イギリス軍のDonald McDonald(ドナルド・マクドナルド)准将の指揮の下、
Fayetteville(ファイエットビル) からイギリス軍との合流予定地点であるCape Fear(フィアー岬)を目指して進軍を開始した。
James Moore(ジェームズ・ムーア)大佐は、王党派部隊がイギリス軍に合流するのを食い止めようとし、Alexander Lillington(アレクサンダー・リリングトン)率いる大陸軍150名と
Richard Caswell(リチャード・キャスウェル)大佐率いる独立派の民兵850名を先回りさせた。リリングトンは、Moores Creek(ムーアズ・クリーク)を待ち伏せ場所として選び、キャスウェルの部隊もこれに加わった。彼らは、クリークの周辺は湿地帯となっており、クリークを渡るにはクリークにかかる橋を通らなければならないと見て取り、橋の東側に塹壕を築き、大砲を配備して王党派部隊の到着を待った。
独立派の塹壕
マクドナルド准将は、斥候の情報からムーアズ・クリークで独立派が待ち構えていることを知り、独立派に降伏を促したが、独立派はこれを拒否ししたため、2月27日、Donald McLeod(ドナルド・マクラウド)少佐率いる部隊を進軍させ、ムーアズ・クリークの橋の前で待機し、夜明けを待った。夜明け前に橋の付近で銃声が響いたのに呼応し、王党派兵は一斉に剣を抜き、独立派兵に向かって突撃した。しかし、王党派兵は塹壕に多くの兵が隠れていることを知らなかった。独立派兵は橋を渡り突撃してくる王党派兵に向けて一斉射撃を行った。たちまち王党派兵士の30名が倒れ、40名が負傷した。独立派の犠牲者は1名であった。王党派部隊は、指揮官を失い、橋をブロックされては進軍がかなわず、退却を始めた。独立派部隊は、これを追撃し、何日かのうちに850名の王党派兵士、大量の武器、弾薬、軍資金を捕らえた。この勝利により、独立派の士気は上がり、ノースカロライナは各州の中で最も早く4月12日に大陸会議の代表に独立への賛成票を投じることを承認した。
ムーアズ・クリークにかかる橋
ムーアズ・クリークでの王党派の敗退により、王党派兵士とイギリス軍が合流するという計画は破綻し、イギリス軍は単独でチャールストン攻撃を余儀なくされた。1776年6月クリントン少将と
Peter Parker(ピーター・パーカー)提督率いるイギリス軍がチャールストンを攻撃するが、William Moultrie(ウィリアム・ムールトリー)がやしの木で造った砦を落とすことができず、イギリス軍は撤退を余儀なくされ、南部へのとっかかりを作る機会を失ってしまった。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)