第2次世界大戦前夜、アメリカの軍隊での人種差別は根強く、黒人兵士は有能な兵士たりえないという偏見が広く共有されていた。陸軍、海軍とも少数の黒人のみの部隊しか配備しておらず、第1次世界大戦でその有用性が確認された航空機部隊からは黒人兵士は一切排除されていた。National Association for the Advancement of Colored People(全国有色人種地位向上協会)などの団体は、軍隊における人種差別を問題視し、公民権問題に強い関心を寄せるルーズベルト政権も軍隊に善処を迫っていた。このような背景の中、ヨーロッパでは、民用パイロットの育成という名目で有事に即応できるパイロットの育成が行われており、風雲急を告げるヨーロッパの政治情勢を踏まえれば、アメリカも有事に備えてパイロットの育成が必要であることは明らかであった。こうしてアメリカでも1939年に始まった連邦政府の民用パイロット要請プログラムの中で、黒人パイロットの養成も実験的に開始された。訓練校として
Tuskegee Institute(タスキギー大学)などが選ばれた。
ヨーロッパの戦局は急を告げ、1940年からは軍が直轄で本格的な軍用パイロット養成に乗り出した。黒人パイロットについては、タスキギー大学がMoton Airfield(モートン飛行場)で初級者訓練を運営し、陸軍はすぐ横にTuskegee Army Air Field(タスキギー陸軍航空基地)を建設し、上級者訓練を実施することとした。1941年7月19日、
Benjamin Davis Jr.(ベンジャミン・デービス・ジュニア)大尉と12名の士官候補生は、米軍黒人パイロット養成1期生として訓練を開始した。11月にはデービス大尉他4名のパイロットが上級者コースに進み、1942年3月7日、彼らは晴れて米軍史上初の黒人パイロットの資格を得た。その後、終戦までに、タスキギーでは992名の黒人パイロットが養成された。空軍では、黒人パイロットの養成を受けて、黒人部隊として、第99戦闘飛行隊、さらには第332戦闘飛行群、及び第477爆撃隊を設置した。第477爆撃隊は実戦配備されることはなかったが、第332戦闘飛行群はヨーロッパ戦線に配備された。第332戦闘飛行群は、その高い技量から爆撃隊よりRed-tail Angels(赤い尾の天使)のニックネームがつけられた。第332戦闘飛行群は、主に地中海での作戦行動に参加し、15,000回の出動で、敵機260機の撃墜、駆逐艦1隻の撃沈に貢献したと言われている。その活躍から、タスキギー出身の黒人パイロットは1機も撃墜されなかったとの神話も生まれた。
米国軍での人種隔離政策の終了は、1948年のトルーマン大統領の大統領命令9981号を待たなければならないが、その礎には第2次世界大戦でのタスキギー出身パイロットを含む黒人兵士たちの勇猛果敢な活躍があった。Tuskegee Airmen Historic Site(タスキギー・エアメン国立史跡)は、まだ新しい国立公園ユニットで、公園内の施設は仮設のビジターセンターとパイロットの初期トレーニングに使用されたモートン飛行場にとどまっており、今後の充実が計画されている。
(国立公園局のHP)