スペインは当初金・銀の財宝を探してアメリカ西南部の領有を開始したが、やがて金・銀がないことがわかると、乾燥した荒れ野の多いこの地域は農業にも適さないため、積極的に原住民をカトリックに改宗し、いわばスペイン人と化させることで、フランスやイギリスからこの地域の権益を守ろうとした。このため、現在のアリゾナ、ニューメキシコ、テキサスなどに本国から多くのフランシスコ派の修道士が派遣され、各地に宣教の拠点を築き、原住民たちを対象に布教活動が進められた。この宣教の拠点を他の原住民や他国兵士の侵略から守るため、近くに砦が築かれ、スペイン兵が配備された。現在のテキサスには当初リオ・グランデ川流域に宣教の拠点であるMission(ミッション)と呼ばれる教会を中心とする共同集落が築かれたが、ルイジアナを拠点とするフランスの影響力の拡大をおそれて、1690年以降、テキサスの東部に多くのミッションが築かれた。これらのミッションは西部の他のミッションと離れているため、その中間地点のSan Antonio River(サン・アントニオ川)の流域に、1718年に
San Antonio de Valero(サン・アントニオ・デ・ヴァレロ)が建てられた。サン・アントニオ・デ・ヴァレロは、アラモの呼称で知られるようになり、後にテキサス独立の舞台となる。これを皮切りとして、サン・アントニオ川流域には、現地のCoahuiltecan(クワウィールテケン族)への宣教を強化するため、次々とミッションが建てられ、これらはSan Antonio Missions National Historical Park(サン・アントニオ・ミッションズ国立歴史公園)として保存されている。
サン・アントニオ地区における宣教活動の強化を主導したのは、Antonio Margil de Jesus(アントニオ・マーギル・デ・イエズス)修道士であった。彼は、1720年にサン・アントニオ地区2番目のミッションになるSan Jose y San Miguel de Aguayo(サン・ホセ・イ・サン・ミゲル・デ・アグアヨ)ミッションを設立した。サン・ホセ・ミッションは、この地区の中心的ミッションとして機能し、巨大な教会建築からミッションの女王と呼ばれた。ミッションは、アパッチ族やコマンチ族らの襲撃から守るため、分厚い城壁に取り囲まれ、原住民にはヨーロッパの武器の使用法が教えられた。ミッションでの生活は、朝のミサに始まり、朝食後男性は農園などに仕事に出かけ、女性は糸紡ぎや石鹸、蝋燭、陶器などの制作にとりかかった。魚の捕獲や鏃の生産は長老の仕事であった。夕方は祈りの会で1日を終了した。それまで狩猟中心生活であったクワウィールテケン族の多くはカトリックの教えを受け入れ、スペイン文化に同化し、定住生活を行うようになっていったという。サン・ホセ・ミッションの現在の教会は1782年に建てられたものである。教会のRose Window(バラの窓)には複雑で美しい装飾がなされ、テキサス南部の教会とは思えない様式美を誇っている。
サン・ホセ・ミッション
サン・ホセ・ミッションの成功により、1731年には、さらに3つのミッションがサン・アントニオ川流域にテキサス東部から移管された。サン・ホセ・ミッションの北には、Nuestra Senora de la Purisima Concepcion(ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・プリシマ・コンセプシオン)が建てられた。この教会はカラフルな幾何学模様で表面を覆われ、内部には宗教画が描かれた。わずかではあるが、その痕跡を今に見ることができる。
コンセプシオン・ミッション
サン・ホセ・ミッションの南、サン・アントニオ川の東岸には、Mission San Juan Capistrano(サン・ファン・カピストラノ・ミッション)が設立された。この付近は、豊かな農園と牧草地に恵まれたため、一帯のミッションや砦への農産物の供給地となった。コーン、豆類、スイートポテト、スカッシュ、パンプキン、桃、メロン、ブドウ、胡椒、サトウキビなどが栽培され、自給自足が確立されていた。3,500匹の羊や同程度の牛が飼育されていたとの記録も残っている。現在残されている教会は1772年ごろに建造されたものである。
サン・ファン・ミッション
さらにその南、サン・アントニオ川の西岸には、San Francisco de la Espada(サン・フランシスコ・デ・ラ・エスパダ)ミッションが設立された。ここでは技術が重要視され、スペインの集落と同様に、織物、鍛冶、大工、石工、レンガ工、レンガ造りなどが原住民に教えられた。1740年ごろに建てられた現在のエスパダの教会には彼らの技術の高さが伺える。また、サン・アントニオ川上流には、1745年に造られたエスパダのミッションのための灌漑用ダムと灌漑用水路が残っている。サン・アントニオ川の下流には、このミッションの牧場であるRancho de las Cabras(ランチョ・デ・ラス・カブラス)が残されている。なお、この牧場へのアクセスはレンジャー・ツアーのみとなっている。
エスパダ・ミッション
これらのミッションは成功を収めたが、ミッションが成功を収めるほどミッションは存在意義を失っていった。これに疫病の流行による原住民人口の減少が加わり、1824年ごろまでにはミッションは役割を終えてその土地や建物は売却されてしまった。しかし、ミッションは、サン・アントニオの町の基礎を築き、サン・アントニオはテキサス南部有数の大都市に成長するとともに、スペイン情緒の残る観光の町として人気を博している。なお、これらのミッションの教会では現在も礼拝が守られている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)