現在のオレゴン州、ワシントン州、カナダのブリティッシュ・コロンビア州一帯は、かつてオレゴン領と呼ばれ、イギリスとアメリカが領有をせめぎあった場所である。1803年のルイジアナ買収によりアメリカの領土は中西部のプレーリーからロッキー山脈まで広がった。しかし、カナダ(イギリス)との国境は曖昧であったため、1818年の条約で北緯49度線を国境と定めた。しかし、その国境はロッキー山脈で止まり、その西、ラッコのなどの毛皮が豊富にとれるオレゴン領は両国の共有とされた。イギリスは、ハドソン湾会社が毛皮取引の利権を固め、事実上オレゴン領を支配していたが、1840年代に入るとオレゴン・トレールを伝って大量のアメリカ人開拓団が入植するようになり、次第にアメリカの勢力が増していった。1844年の大統領選挙で西部への拡張を公約に掲げた
James Polk(ジェームズ・ポーク)大統領が当選し、アメリカの主張は意気が上がり、54度40分を国境に主張するようになった。両国は交渉に入り、1846年オレゴン条約により、両国の境界線を北緯49度に定めるが、ただしバンクーバー島はイギリス領にとどめることとした。このとき、バンクーバー島とアメリカとの境界線は、その間の海峡の中央線とする旨定められたが、バンクーバー島の東に海峡は2つあり、アメリカは西側のHaro Strait(ハロ海峡)を国境と主張し、イギリスは東側のRosario Strait(ロサリオ海峡)を国境と主張した。この2つの海峡に挟まれた
San Juan Islands(サン・ファン諸島)は国境紛争の舞台となった。イギリスは、1853年ハドソン湾会社がサン・ファン島に羊牧場の経営を開始した。アメリカ側も同年オレゴン領議会がサン・ファン諸島を領内に組み入れ、アメリカ人開拓者がサン・ファン島に入植するようになった。
ハドソン湾会社とアメリカ人開拓民との間の緊張関係は、1859年のある事件をきっかけに大紛争に発展した。1859年6月15日、アメリカ人開拓民Lyman Cutlar(ライマン・カトラー)が自分の畑を荒らすハドソン湾会社の豚を撃ち殺した。イギリスはカトラーを逮捕しようとしたが、アメリカ人開拓民は陸軍オレゴン地区司令官の
William Harney(ウィリアム・ハーニー)准将に保護を要請した。ハーニー准将は、後に南北戦争で有名になる
George Pickett(ジョージ・ピケット)大尉率いる66人の歩兵隊を派遣した。この動きにブリティッシュ・コロンビア領知事
James Douglas(ジェームズ・ダグラス)は憤り、Geoffrey Hornby(ジェフリー・ホーンビー)大尉率いる艦隊を派遣し、ピケットに撤退を迫ったが、ピケットはこれを拒否した。ホーンビーは、イギリス太平洋艦隊司令官のRobert Baynes(ロバート・ベインズ)海軍少将の到着を待った。ピケットの部隊には、
Silas Casey(サイラス・ケイシー)中佐率いる応援部隊が加わり、8月末にはアメリカ軍は総勢461名に膨らんだ。ベインズ少将の部隊が到着したイギリス軍も艦船5隻、総勢2,140名に膨らんだ。
豚一匹を巡り戦争となることを避けるため、
James Buchanan(ジェームス・ブキャナン)大統領は、陸軍総司令官
Winfield Scott(ウィンフィールド・スコット)中将を派遣し、事態の収拾に当たらせた。ブキャナン大統領は、1846年オレゴン条約締結当時の国務長官で、いわば自らの仕事の後始末をせざるを得なくなったわけである。スコットは、ダグラス知事と会談し、事態の具体的な解決を協議する間、両国とも最小限の兵のみを残してサン・ファン島から撤退することに合意した。この後、アメリカ軍は島の南側に駐屯地を構え、イギリス軍は島の北西側に駐屯地を構えた。
アメリカ軍駐屯地
イギリス軍駐屯地
領土紛争の解決にはさらに12年の年月を要し、1871年、両国はドイツ皇帝の
ウィルヘルム1世に仲介を依頼した。ウィルヘルム1世は、10月21日、アメリカの主張を採用し、ハロ海峡を国境とする裁決を下した。この結果、サン・ファン諸島は、アメリカ領となることが決定し、1872年11月25日イギリス海軍はサン・ファン島から撤収した。アメリカ軍も1874年7月に撤収し、島には平和が戻った。両国とも、豚1匹を巡り軍事紛争に至らずほっと胸をなでおろした。
なお、サン・ファン島の周りはシャチ、イルカやゴマフアザラシなどが数多く生息しており、シーカヤックが人気の場所となっている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)