ウィスコンシン州の北に、スペリオール湖とミシガン湖に挟まれたミシガン州の飛び地があり、その中にスペリオール湖に突き出す半島がある。この半島は、Keweenaw(キウィノー)半島と呼ばれ、かつては世界有数の銅の産出を誇った場所である。キウィノー半島では、1840年から1968年までに500万トンの銅が採掘された。現在は、かつての銅山跡や銅の産出で沸いたCalumet(カルメット)の町並みがKeweenaw National Historical Park(キウィノー国立歴史公園)として保存されている。
キウィノー半島で銅が産出することは、今から7000年ほど前から原住民の間で知られていた。銅の純度が高かったため、土から掘り起こした胴はそのまま装飾具や道具に加工され、各地との交易に使用されていた。キウィノー産の銅は、アイオワ州の
エフィジー・マウンズ国定公園やオハイオ州の
ホープウェル・カルチャー国立歴史公園などでも見つかっている。キウィノー半島の銅は、ここを訪れたフランス人、イギリス人などの目にも留まったが、本格的な銅山の開発が始まったのは、1840年代になってからである。1843年の銅塊の発見が引き金となり、ゴールドラッシュならぬ。コッパーラッシュが起きた。1860年代にキウィノー半島の付け根を横断するKeweenaw Waterway(キウィノー水路)が開通し、銅の精製、銅の搬出の利便が確保された。キウィノーは、Ojibwe(オジベ族)の言葉でポーテッジを意味するが、この水路の開通によりポーテッジの必要がなくなった。
多くの銅山が開発されたが、最も成功した銅山の一つとなったのが、Quincy Mine(クインシー銅山)である。1846年にマサチューセッツ州の投資家が始めたクインシー銅山は、銅の鉱脈のみを採掘する方法から銅の鉱脈を含む地層丸ごと採掘し、その中から銅を振り分ける方法に早くから切り替え、効率的な手法で創業以来54年間黒字経営を続けた銅山であった。銅の鉱脈を含む地層に穴を開けてダイナマイトで爆破し、銅を含む岩石を引き上げて砕いて銅を含む部分をより分け、地上でそれをさらに機械を用いて細かく砕き、さらに水を用いてふるいにかけ、それを溶かして不純物を取り除き、最後に銅の延べ棒を作り上げ、出荷した。クインシー銅山の第2坑道は、9,260 フィート (2.82 km)に達し、当時世界一深い銅坑道であり、この坑道に備え付けられた蒸気式揚銅機は世界最大のものであったという。順調な経営を続けたクインシー銅山も、世界各地の銅山の開発に伴う価格下落には立ち行かず、1945年にその幕を閉じた。夏場には銅山の見学をするツアーが行われている。
第2坑道
第2坑道用揚銅機を収めた建物
クインシー銅山のライバルとなったのが、Calumet &Hecla Mining Company(カルメット&ヘルカ鉱山会社)であった。カルメット&ヘルカ鉱山会社は、1865年に創業されたカルメット鉱山とその子会社として翌年設立されたヘルカ鉱山が1871年に合併してできた会社である。同社は大規模な銅の産出で知られ、1870年代にはその産出量は全米の銅の産出量の過半数を上回っていた。生産量は、1906年にピークに達し、4万5千トンの銅を産出した。銅山の繁栄とともに、銅山の町カルメットは栄えた。銅山を支えたのは、世界中から集まった移民労働者で、イギリス、アイルランド、ドイツからの移民に始まり、その国籍は北欧、東欧、中国、レバノンなどに30ヶ国以上に広がり、従業員数は5,000人を超えた。その後、銅価格の低迷により、次第に産出量は減少し、その間、カルメット&ヘルカ鉱山会社は周囲の銅山を買収しながら操業を続けた。第2次世界大戦後は、他の金属にも手を広げたが、1968年にUniversal Oil Products(ユニバーサル・オイル・プロダクツ)社に買収された。カルメットの町には、カルメット劇場、セント・アン教会、組合本部ビルなど、カルメットが栄えた当時の町並みが保存されている。キウィノー半島の銅山の歴史を伝えるCoppertown Mining Museum(コッパータウン鉱山博物館)もカルメットの町に置かれている。
カルメット劇場
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)