コロラド州、ニューメキシコ州、ユタ州、アリゾナ州の4州が接する場所、Four Corner(フォー・コーナー)の近くに私有地の敷地の一角に隠れた原住民の遺跡がある。ビジターセンターもなければ、国立公園局が設置する道標もない。地主が立てた標がわずかにここに遺跡が眠っていることを知らせてくれる。この近くを訪れる観光客はおろか、近くの住民さえも多くはその存在を知らないだろう。Yucca House National Monument(ユッカ・ハウス国立遺跡)は、国立公園局ユニットの中でも最も知られざるユニットの一つである。
この地に移住してきた開拓者たちは、Aztec Ruins National Monument(アステカ遺跡国立遺跡)と同様に、この遺跡はメキシコのアステカ文明の担い手が残したものと考えていたが、同じくアナサジ族が残したものと考えられている。フォー・コーナーの周辺には、1150年から1300年ごろにかけてとうもろこし、豆類、瓜類を栽培する民族が暮らしていた。このグループに属する人々がここユッカ・ハウスでも生活していたものと考えられている。この地に住んでいた人々は、他の遺跡と同様、1300年ごろには姿を消し、他の地に去っていった。
キュアキャンティ国立レクリエーション地域のすぐ下流に位置するのが、Black Canyon of the Gunnison(ガニソン川の黒い峡谷)である。この黒い峡谷を流れるガニソン川は全米屈指の急流である。ガニソン川の黒い峡谷は、急傾斜で下るガニソン川が鋭く岩肌を切り刻み、あまりに深く切り込んでいることから、川底まで太陽の光が届かず、岩肌が黒く見えるため、このように呼ばれている。ガニソン川の黒い峡谷は、1853年にガニソン川の名前の由来となったJohn Williams Gunnison(ジョン・ウィリアムス・ガニソン)大尉がPacific Railroad(太平洋鉄道)のため鉄道ルートの可能性を探るために訪れたとき、あまりの険しさと急流のため、迂回せざるをえなかった場所である。黒い峡谷48マイル(77km)のうち最も切り込みの深い12マイル(19km)が国立公園として保護されている。
モロー・ポイント貯水湖は、鋭く切り立った崖が押し迫る細長い貯水湖である。夏の間は、ボート・ツアーが催行され、人気となっている。モロー・ポイント貯水湖ができる前、ガニソン川に沿ってDenver and Rio Grande Western Railroad(デンバー=リオ・グランデ西部鉄道)が15マイル(24km)ほどの距離をCimarron(シマロン)まで走っていた。この路線は、1882年に周辺の鉱山ブームに対応するための鉄道として開通し、敷地を十分にとれないため3フィート(1.2m)の狭軌が使用された。夏には絶景が楽しめるが、冬には雪崩やがけ崩れの危険と隣り合わせの危険な路線であった。それでも1940年まで旅客輸送は行われ、貨物輸送は1949年まで続いた。ボート・ツアーの船着場までのPine Creek Trail(パイン・クリーク・トレール)はかつての線路敷で、架線を引いた名残も残っている。モロー・ポイント貯水湖の中ほどに聳え立つCurecanti Needle(キュアキャンティの針)と呼ばれる石柱は、デンバー=リオ・グランデ西部鉄道のシンボルマークとして使われた。
1821年にWilliam Becknell(ウィリアム・ベックネル)によって開拓されたミズーリー川とメキシコ(サンタフェ)を結ぶルート、サンタフェ・トレールは、間もなくロッキー山脈の毛皮や中西部のバッファローの毛皮と東海岸で製造された工業品や贅沢品とを交換するワゴン車が行き来するメジャーな交易ルートとなった。1833年に、このサンタフェ・トレールの北側のルート上に、当時のアメリカとメキシコの国境のアーカンソー川のほとりに、サンタフェ・トレールの中心的な交易所が建てられた。この交易所は、設立者であるBent(ベント兄弟)の名前をとって、Bent’s Fort(ベントの砦)と呼ばれ、未開のフロンティアの異文化間の交易・社交の場となった。現在、ベントの砦があった場所に交易所の建物が再建され、Bent’s Old Fort National Historic Site(ベント・オールド・フォート国立史跡)として保存されている。(当時の交易ルートは、ここ(PDF)を参照。)
1830年には、ベント兄弟は、地元の交易商Ceran St. Vrain(セラン・セント・ヴレイン)とチームを組み、Bent, St. Vrain & Company(ベント=セント・ヴレイン商会)を設立し、サンタフェやTaos(タオス)に店を構え、サンタフェ・トレールの交易品の輸送に従事した。このときに、サンタフェ・トレールの途中に交易所兼休憩所を設ける案を思いつき、1833年にベントの砦と後に呼ばれる交易所を設立した。3人のうち、ウィリアムがこの交易所のマネージャーとなった。ウィリアムが原住民との良好な関係を築いていたため、シャイアン族やArapaho(アラパホ族)はバッファローの毛皮をここに持ち込み、バッファローの毛皮の一大出荷地点となった。また、サンタフェ・トレールの旅人にとっては、2ヶ月のサンタフェ・トレールで唯一安心して休憩し、補給できる場所となった。また、交易所は事実上の中立地点として、原住民部族間の紛争解決や連邦政府と原住民との間の話し合いの場所となった。1837年にウィリアムはシャイアン族の酋長の娘と結婚し、原住民との関係はさらに親密なものとなった。やがてベントの交易所は、アメリカ西南部の原住民との一大交易所に発展した。
コロラド州の南部、Sangre de Cristo Mountains(サングレ・デ・クリスト山脈)の麓に巨大な砂丘が広がっている。この砂丘は、Great Sand Dunes(グレート・サンド・デューンズ:巨大な砂丘)と呼ばれ、全米で最も高さの高い砂丘である。この砂丘を含む一帯は、Great Sand Dunes National Park and Preserve(グレート砂丘国立公園・自然保護区)に指定され、保護されている。
ロッキー山脈がコロラド州の南でサングレ・デ・クリスト山脈とSan Juan Mountains(サン・ファン山脈)に分かれ、両山脈に囲まれる台地は、San Luis Valley(サン・ルイ・ヴァレー)、地元ではValley(ヴァレー)と呼ばれている。このヴァレーは、比較的乾燥した気候の耕地で、人々は干草の栽培、牧場の経営などで生計を立てて暮らしている。この地域は野生動物も豊富で、鹿、エルク、プロングホーン、ブラックベアー、コヨーテなどが生息している。そこに突然巨大な砂丘が横たわっている。
コロラド州北西部、コロラド川に注ぎ込む支流が高度差2,000フィート(600m)の峡谷とメサの織り成すダイナミックな風景を刻み込んでいる。Colorado National Monument(コロラド国定公園)は、グランドサークルの国立公園を生み出しているコロラド高原の北東端に当たり、グランドサークルの国立公園と同様のプロセスで出来上がっている。ほとんどの地層は、恐竜が地球上の主役であった中世紀に堆積したもので、化石が豊富だそうだ。雨や雪が岩肌に染み込み、夜間に凍結して楔のように岩石を割り、さらにはコロラド川の支流が岩肌を削り取っていく。こうして出来上がった自然の彫刻にジュニパー、松などが点在し、赤褐、黄、グレーの岩肌に緑の粉絵の具を振りかけたようになっている。
コロラド州北部、ロッキー山脈のど真ん中、山、森、川、湖、草原、野生動物、まさに国立公園を絵に描いたような世界、それがRocky Mountain National Park(ロッキー山脈国立公園)である。トータルで359マイル(574km)ものトレールが整備されており、まさにここはハイカーのパラダイスと言えよう。時間がある人は、ロッキー山脈国立公園では、キャンプ、ハイキング三昧を楽しむことができる。その他、フィッシング、乗馬、バードウォッチングなど自然を楽しむ楽しみ方はいく通りもある。
時間がない人は、ドライブだけでも自然を満喫できる。公園をくの字型にUS34号線が走っている。このUS34号線は、Trail Ridge Road(トレール・リッジ・ロード)と呼ばれ、公園内の主要幹線道路になっている。アメリカで最も高い場所を走るハイウェイだ。この道路を東から西へそして南へと総延長48マイル(77km)の道を下っていくと、ロッキー山脈の生態系の移り変わりを堪能することができる。さらにスリルが欲しい人は、トレール・リッジ・ロードと並行して北側を走るOld Fall River Road(オールド・フォール・リバー・ロード)を走ろう。こちらはさらに急勾配でしかもガードレールのない一車線の狭いダートロードである。
11,500フィート(3,450m)に達すると山風が吹きすさぶツンドラ地帯に風景が変わる。ここはRoof of the Rockies(ロッキーの屋根)と呼ばれている。もはやアラスカなどの寒冷地の風景である。高度差があるため気温の変化も激しいので上着は必ず持っていこう。でないとツンドラ地帯での記念撮影に耐えられない。
ドライブだけではもったいないのでどこかで車をとめてハイキングをしよう。長短様々なトレールが整備されているので、自分にあったものを探して歩き出せばよい。トレール・リッジ・ロードの南にある10マイル(16km)のBear Lake Road(ベア湖道路)をたどれば、ベア湖にたどり着き、そこを基点としてロッキー山脈の奥深くに入り込むことができる。