James Moore(ジェームズ・ムーア)大佐は、王党派部隊がイギリス軍に合流するのを食い止めようとし、Alexander Lillington(アレクサンダー・リリングトン)率いる大陸軍150名とRichard Caswell(リチャード・キャスウェル)大佐率いる独立派の民兵850名を先回りさせた。リリングトンは、Moores Creek(ムーアズ・クリーク)を待ち伏せ場所として選び、キャスウェルの部隊もこれに加わった。彼らは、クリークの周辺は湿地帯となっており、クリークを渡るにはクリークにかかる橋を通らなければならないと見て取り、橋の東側に塹壕を築き、大砲を配備して王党派部隊の到着を待った。
シャックルフォード・バンクには、100頭余りの野生の馬が住んでいる。他の野生の馬と同様、やや小ぶりでポニーに近いが、400年前にスペイン人が持ち込んだ馬の子孫と考えられている。これらの馬はThe Foundation for Shackleford Horses(シャックルフォード馬財団)によって保護されている。
大西洋に面したノースカロライナ州の東部に、Outerbanks(アウターバンクス)と呼ばれる、天橋立がごとく、細長い砂州がつながってできた列島がある。アウターバンクスの外側の大西洋岸は遠浅となっており、かつては航海の難所で、多くの船がここで遭難したため、Graveyard of the Atlantic(大西洋の墓場)として恐れられた場所であった。今日では、細長く続く美しい砂浜のため、夏場に海水浴とレジャーで賑わう別荘地として知られている。アウターバンクスの島々のうち、Bodie Island(ボディー島)の南部、Hatteras Island(ハッテラス島)、Ocracoke Island(オクラコーク島)は、Cape Hatteras National Seashore(ハッテラス岬国立海岸)を形成している。ハッテラス岬は、ハッテラス島の東に突き出た岬で、アウターバンクスで最も東の地点に当たる。
イギリスの北アメリカで初めて成功した植民地Jamestown(ジェームズタウン)http://usnp.exblog.jp/6301377を遡ること20年前に、ノースカロライナ州のRoanoke Island(ロアノーク島)に植民地が設立されていた。このイギリスの北アメリカ初の植民地は、Sir Walter Raleigh(ウォルター・ラレイ卿)によって派遣された開拓団によって設立されたものであった。しかし、この植民地は消滅してしまい、幻の植民地に終わっている。この幻の植民地のあった場所は、現在、Fort Raleigh National Historic Site(ラレイ砦国立史跡)として保存されている。
ラレイ卿は、1584年に、Philip Amadas(フィリップ・アマダス)とArthur Barlowe(アーサー・バーロー)を派遣して、植民地建設候補地を選ぶための下見渡航をさせた。彼らが発見した肥沃な土地はVirginia(ヴァージニア)と名付けられ、この報告を基に、ラレイ卿は、すぐに女王の特許を得て、投資家を募り、1585年4月に彼の従兄弟であるSir Richard Grenville(リチャード・グレンビル卿)を団長に北アメリカに向けて108名からなる植民団を派遣した。ラレイ卿の植民地は、スペイン船の略奪のための基地を創ることが目的であった。6月の終わりにはアメリカに到着したが、植民地の最適地を探して1ヶ月ほどさまよい、ロアノーク島に植民地を建設することに決めた。植民者の中からRalph Lane(ラルフ・レーン)を知事に選び、スペインからの攻撃を想定して砦を建設した。グレンビル卿は追加補給のために本国に帰った。ロアノークの原住民も当初はイギリスの植民者と交易関係を結び、友好に接した。イギリスの植民者たちは、農園を持たず、食糧の供給を本国と原住民に頼った。しかし、冬になり食糧が乏しくなると、原住民は食糧を分け渋るようになり、イギリス植民者は原住民から略奪を行い、両者の関係は悪化した。イギリス植民者の持ち込んだはしかや水疱瘡などの病気がこれにさらに輪をかけた。ロアノーク族のWingina(ウィンギナ)酋長は、植民者が留守の間にラレイ砦を略奪し、レーンはウィンギナを誘い出し、殺害した。1586年6月にスペイン船からの略奪物で一杯のSir Francis Drake(フランシス・ドレーク卿)の船が近くを通りかかり、ドレーク卿はイギリス植民者に船と食糧の供給を申し出た。しかし、肝心な船は嵐で流されてしまい、ドレーク卿の船団にも被害が出てしまった。グレンビル卿の補給船は当てにならないと判断し、レーンは、ドレークの船で植民者をイギリスに引き揚げることとした。そのわずか2日後に遅れていたグレンビル卿の補給船がロアノーク島に到着した。しかし、植民者はいなくなっていたため、グレンビル卿は、15名を残して、新たな植民者のリクルートにイギリスに戻った。
1903年12月17日10:35、この瞬間人類の歴史が書き換えられた。人類が重力の軛から離れて空に浮かんだ一瞬である。ライト兄弟のこの偉業は、航空産業という新たな産業を生み出し、短時間による長距離旅行を可能にすることになる。多くの先人が失敗した有人動力飛行は、ライト兄弟による4年間の実験を通じた絶え間ないと工夫と改良で達成された。ライト兄弟が初めて空を飛んだ場所、ノースカロライナ州Kitty Hawk(キティー・ホーク)の砂浜は、Wright Brothers National Memorial(ライト兄弟国立記念碑)として保存されている。
Carl Sandburg(カール・サンドバーグ)と言っても、日本人にはあまり知られていないかもしれない。2度ピューリッツア賞を受賞した詩人、作家、ジャーナリスト。その作品は詩集、歴史、小説、批評、児童文学など多岐に渡る。彼が晩年の創作期を過ごした家(農場)がノースカロライナ州Flat Rock(フラット・ロック)にあり、Carl Sandburg Home National Historic Site(カール・サンドバーグ・ホーム国立史跡)として保存されている。
結婚後、Chicago Daily News(シカゴ・デイリー・ニュース)紙のレポーターとして働く。1914年に自作の9編の詩が雑誌Poetry(詩人)に発表され、2年後に詩集Chicago Poems(シカゴ詩集)は批評家の評価を得て、1918年には詩集Cornhusker(コーンハスカー)を出版した。詩の分野に限らず、サンドバーグは多彩な文才を発揮する。1922年には児童書Rootabaga Stories (ルータバガのお話)を発表し、新境地を開いた。1926年に出版したAbraham Lincoln: the Prairie Years(アブラハム・リンカーン:プレーリー時代)は、商業的成功を収め、この印税でミシガン湖の畔に家を建てた。1932年には新聞社を辞め、作家として身を立てることとなった。サンドバーグは、1940年に出版したAbraham Lincoln: the War Years(アブラハム・リンカーン:戦争時代) でピューリッツア賞の歴史部門を受賞した。この頃から、妻と娘のHelga(ヘルガ)は、乳用ヤギの飼育に取組み始め、商業的成功を収めるまでになった。執筆活動とヤギの飼育により良い場所を求めて、サンドバーグ一家は、1945年にノースカロライナ州のフラット・ロックの農場に転居した。サンドバーグは、Connnemara(コンネマラ)と呼ばれたこの場所で亡くなるまでの22年間、創作活動を行った。
コンネマラの家
サンドバーグの創作意欲は衰えることなく、1848年には小説Remembrance Rock を著し、1953年には自伝Always the Young Strangers を発表した。詩の分野でも活躍は続き、1951年には詩集Complete Poems でピューリッツア賞の詩部門を受賞している。その間、妻のポーラは、ヤギの飼育に精を出し、一時は200匹を数えるまでに群れは膨らんだ。このヤギの子孫は、今でもカール・サンドバーグ・ホーム国立史跡で飼育されており、訪れる人たちに愛嬌を振りまいている。
サンドバーグは、労働者の視点に立ち、アメリカ人とは何かをその生涯追い求め続けた。彼が問い続けた問い"Who am I, where am I going and where have I been?"(私は誰だろう、どこへ行くのだろう、そしてどこから来たのだろう。)は、私たちにとっても永遠のテーマである。