メルローズは、1849年に弁護士John T. McMurran(ジョン・T・マクマラン)が建てた邸宅である。マクマランは、1801年にペンシルベニアに生れた北部出身の弁護士で、1825年に南部でのチャンスを夢見てノッチーに移住し、州最高裁判事の娘と結婚して、この町の上流階級への糸口をつかんだ。弁護士の仕事は、綿花産業の隆盛とともに、大きく成功し、マクマランは、5つの農園を所有し、325人の奴隷を保有する富豪となった。マクマランは、夏は避暑のため米国北東部やヨーロッパで過ごし、寒くなるとノッチーに戻り、農園の経営をチェックしていた。ギリシャ復古調の大邸宅は当時の栄華を今日に伝える。食卓テーブルの真上に大きなファンが取り付けられているところが印象的だ。しかし、南北戦争により、南部の経済は疲弊し、息子は北部に逃避し、2人の孫を病気で亡くし、マクマランは失意のうちにメルローズを売却し、メリーランドに移住しようとしたところ、船の事故で命を落とした。
シャイロの戦いに勝利し、ミシシッピー州侵攻への取っ掛かりを作ったグラントの次なる目標はミシシッピー州中腹の都市Vicksburg(ヴィックスバーグ)であった。ヴィックスバーグは、ミシシッピー川が馬蹄形に湾曲して流れる高台にある厳重に砦を張り巡らせた要塞都市であった。この高台の要塞都市からミシシッピー川を航行する船舶を攻撃することは非常に容易く、南部がこの都市を押さえている限り、連邦政府はミシシッピー川の航行権を奪還することはできず、ミシシッピー川西のルイジアナ、アーカンソー、テキサス諸州と他の南部各州との連携を打ち切ることは不可能であった。この難攻不落の要塞都市は、「南軍のジブラルタル」と呼ばれ、南北戦争開始当初からこの都市が戦局を大きく左右する鍵と双方が見ていた。ヴィックスバーグには、John C. Pemberton(ジョン・C・ペンバートン)中将以下15,000の兵であった。1862年5月と6月に、ニューオーリンズを陥落させたDavid Farragut(デービッド・ファラガット)海軍少将は、ミシシッピー川からのヴィックスバーグ攻略を試みたが失敗に終わっている。
1863年3月31日、グラント率いる本隊45,000はミシシッピー川の西側のルートを通って南進を開始した。4月16日及び22日、David Porter(デービッド・ポーター)海軍少将率いる艦船部隊の大半は、ヴィックスバーグをすり抜け、ミシシッピー川の南進に成功した。陸軍部隊が南進する間、グラントは、シャーマンにヴィックスバーグへの威嚇攻撃を行わせるとともに、Benjamin Grierson(ベンジャミン・グリアーソン)大佐率いる騎兵隊にミシシッピー州中部を撹乱させ、ペンバートン率いる守備隊の注意をそちらに引きつけているうちに、本隊を南進させた。4月30日、グラント率いる本隊は、ミシシッピー川を渡り、Bruinsburg(ブルインズバーグ)に上陸した。この上陸作戦は、ノルマンジー上陸作戦が行われるまで米軍最大の上陸作戦に数えられていた。上陸した連邦軍は、5月1日、Port Gibson(ポート・ギブソン)の南軍守備隊を撃破した後、ヴィックスバーグに北進せず、南軍の補給経路を断ってヴィックスバーグを孤立化させるとともに、自軍の背後を固めるため、ミシシッピー州最大の都市Jackson(ジャクソン)を目指して東に兵を進めた。南軍はジャクソンに6,000の兵しか駐在させておらず、5月14日、ジャクソンに派遣されたJoseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)大将は圧倒的な北軍の兵力を前に成すすべなく退却を命ずるしかなかった。グラントは、ジャクソンに守備隊を置くとすぐさまヴィックスバーグに向けて踵を返した。グラントは、これを食い止めようとするペンバートン率いる南軍をChampion Hill(チャンピオン・ヒル)、Big Black River Bridge(ビッグ・ブラック・リバー・ブリッジ)で立て続けに撃破し、5月18日にはヴィックスバーグの入口に到達した。ペンバートン率いる南軍は要塞都市ヴィックスバーグの中に立て篭もった。(ここまでの経緯については、ここを参照。)
7月9日には、ミシシッピー川で最後の抵抗拠点として残ったPort Hudson(ポート・ハドソン)も、包囲戦の末、ヴィックスバーグ陥落の報を聞き、Nathaniel Banks(ナザニエル・バンクス)少将率いるArmy of the Gulf(メキシコ湾軍)に降伏した。これによってミシシッピー川の航行権は北軍が完全に制覇することとなり、南部はルイジアナ、テキサス、アーカンソー各州は他の州と分断されることとなった。ヴィックスバーグでの北軍の勝利は、東部戦線のゲチスバーグでの勝利の1日後にもたらされ、この1863年7月を機に、南北戦争の戦局は大きく連邦政府有利に傾くこととなる。ヴィックスバーグ攻略の戦果を挙げたグラントは、北軍の戦局が不利なチャタヌガに派遣される。
なお、Vicksburg National Military Park(ヴィックスバーグ国立軍事公園)には、16マイル(26km)のツアー用道路が整備されており、1,300以上と言われる記念碑やマーカー、20マイル(32km)にわたる防御土塁を見学することができる。1862年12月12日に、米国戦争史上、初めて機雷で沈められた装甲艦Cairo(カイロ)が引き揚げられて展示されており、見逃せない。
スミスは、1864年7月11日、ミシシッピー州北部のPontotoc(ポントトック)に到着した。フォーレストは6,000の騎兵隊でその南東のOkolona(オコローナ)に配備していたが、地区司令官のStephen D. Lee(スティーブン・D・リー)中将率いる2,000の応援部隊の到着を待っていた。この間に、スミスは兵を東のTupelo(トゥペロ)を占拠し、塹壕を築いた。不意を突かれトゥペロの高地を北軍に押さえられたフォーレストは、相手の選んだ地を攻撃する羽目に陥ってしまった。
7月14日、リーとフォーレストは、スミスの正面を攻撃するが、成功せず、続いて左翼からJoseph A. Mower(ジョセフ・A・モーワー)准将の師団を、そして右翼からBenjamin Grierson(ベンジャミン・グリエルソン)准将の師団を攻めるが、塹壕に立て篭もる北軍を切り崩すことができなかった。フォーレストは、その夜、北軍の左翼の黒人部隊を攻撃するが、跳ね返された。しかし、スミスの北軍も万全な状態ではなかった。度重なる南軍の攻撃を跳ね返すために、武器・弾薬を消耗してしまった。このために、スミスは、翌15日、トゥペロを離れ、メンフィスに向けて部隊を移動させようとした。この機会をとらえ、フォーレストはスミスの背後を襲うが、撃退され、フォーレスト自身も足を負傷し、戦線を離脱してしまった。(両軍の動きは、ここ(PDF)を参照。)
ミシシッピー州Natchez(ノッチー)の町から、ミシシッピー州を斜めに横切り、アラバマ州の北西部をかすめてテネシー州ナッシュビル近郊に到るルートは、古くから原住民によって交易ルートとして使用されてきた。このトレールは、Natchez Trace(ノッチー・トレース)と呼ばれ、ノッチー族、Chickasaw(チッカソー族)、Choctaw(チョクトー族)らによって利用された。スペイン人探検家Hernando De Soto(ヘルナンド・デ・ソト)も米国南部内陸部探検の際にこのルートを通ったと推察されている。
しかしながら、1812年の蒸気船の登場、さらには東方にニューオーリンズとナッシュビルを結ぶ別ルート、Jackson’s Military Road(ジャクソン将軍軍事道路)の整備により、ノッチー・トレースの利用価値は次第に低くなり、1830年ごろにはもはや道路として使用されることはなくなった。
今日では、かつてのノッチー・トレースに沿って、444マイル(715Km)のパークウェイが整備されているが、その沿道には、かつてのノッチー・トレースの一部が残されており、これを利用してNatchez Trace National Scenic Trail(ノッチー・トレース国立景観トレール)が設けられており、ハイキングに利用されている。