カリブ海に浮かぶ島、プエルトリコ。アメリカ領ながらスペイン語が公式言語となっている唯一の土地である。サルサで知られるこの島の首都San Juan(サン・ファン)に、Old San Juan(オールド・サン・ファン)と呼ばれる旧市街区がある。プエルトリコ島に隣接するサン・ファン島の西半分を占めるスペイン情緒の残る町並みは、周囲が城壁に囲まれ、西と東の端を巨大な砦が守る要塞都市である。世界遺産にも登録されている要塞都市オールド・サン・ファンを海の攻撃から守るEl Morro(エル・モロ)要塞、東の陸の攻撃から守るSan Cristobal(サン・クリストバル)要塞は、San Juan National Historic Site(サン・ファン国立史跡)に指定され、国立公園局が管理している。これらの要塞は、カリブ海におけるスペインの戦略拠点プエルトリコをイギリス、フランス、オランダからの攻撃から守るために建てられた要塞で、大航海時代のヨーロッパ列強のカリブ海における覇権争いの歴史を今日に伝えている。
プエルトリコは、1493年にコロンブスの第2回目の航海の際に「発見した」島であるが、ヨーロッパからのカリブ海への入り口に位置する島であり、ここを敵国に奪われることは中南米とスペインを結ぶルートを脅かされることになるため、スペインは1521年に島の北側の天然の良港にサン・ファンの町を建設した。当初は堅固な住居でしかなかった守りも、1540年代にはサンユワン湾防備のための小さな砦(エル・モロ)が築かれ、1591年にはその上部に陸上からの攻撃に備えて城壁が建設され、防備が強化された。1595年には1588年にスペインの無敵艦隊を破ったイギリスのFrancis Drake(フランシス・ドレーク)卿率いる艦隊がサン・ファン湾に攻め入り、スペイン船の金銀を奪おうとしたが、Pedro Suarez Coronel(ペドロ・スワレズ・コロネル)知事率いるスペイン守備隊はこれを撃退した。1598年にはイギリスのカンバーランド伯は、エル・モロを包囲し、Antonio de Mosquera(アントニオ・デ・モスクエラ)知事を逮捕したが、赤痢の流行のため、イギリス軍は撤退を余儀なくされた。新たに知事に就任したAlonso de Mercado(アロンソ・デ・メルカード)は、エル・モロの強化に取り掛かり、陸側の城壁を補強し、サン・ファン湾を見下ろす砲台を築いた。1625年にはオランダ艦隊がサン・ファンに攻め入り、これを攻略し、エル・モロを陸側から包囲した。Juan de Haro(ファン・デ・ハロ)知事率いる守備隊は激しく抵抗し、これを撃退した。オランダ軍は撤退の前にサン・ファンを焼き討ちにした。
7年戦争でフランスを破り、アメリカでの権益を拡張したイギリスへの防備を強化するため、スペイン国王カルロス3世は、サン・ファンの防衛の再強化を命じた。アイルランド人技師Thomas O’Day(トーマス・オデイ)は、その担当に任ぜられ、1765年から1780年代にかけてサン・ファンを取り囲む城壁を一周させ、サン・クリストバル要塞に外堀と外塁を築き、エル・モロはさらに拡張・強化され、今日の6F建ての重層的な構造が完成した。サン・クリストバル要塞は、4,500基の大砲を擁するアメリカ最大の要塞となった。1797年にイギリス軍7,000名がサン・ファンを包囲したが、要塞都市サン・ファンに立て篭もるRamon de Castro(ラモン・デ・カストロ)知事率いるスペイン守備隊はびくともせず、イギリス軍を撃退した。