Jean Lafitte National Historical Park and Preserve(ジャン・ラフィート国立歴史公園・自然保護区)は、母なる川ミシシッピーによって造られたデルタ地帯に位置するニューオーリンズを中心とした歴史・文化・自然を保護する国立公園ユニットである。全体で6つのユニットからなるが、そのうちフランス植民地の頃からニューオーリンズの中心地として栄えたフレンチ・クウォーター、Bayou(バイユー)と呼ばれるミシシッピー・デルタ地帯を流れる川により形成された湿地帯を保護するBarataria(バラタリア)、英米戦争最大の陸戦の一つニューオーリンズの戦いの跡を保存するChalmette(シャルメット)の3つのユニットが中心となっている。
ミシシッピー・デルタ地帯一の大都市ニューオーリンズは、1718年にフランス植民地として始まった町である。ニューオーリンズを含むルイジアナ領がフランスからスペインへ、またフランスへ、最終的にはアメリカに売却される過程を経ながら、フランス、スペイン、アメリカ、原住民、アフリカ、西インド諸島などの多文化が有機的に融合し、独特の文化を形成していった。この過程で1755年にカナダのノバスコシアから追放された大量のフランス系住民(Acadian)はルイジアナに住み着き、独特の文化の形成に寄与した。ジャン・ラフィート国立歴史公園・自然保護区では、彼らの文化、歴史、習慣などを伝える3つの文化センターがルイジアナ各地に置かれている。これらの歴史を背景にニューオーリンズの旧市街地フレンチ・クウォーター(PDF)はヨーロッパの色彩の残る独特の町並みを形成している。フレンチ・クウォーターの中心に位置するSt. Louis Cathedral(セント・ルイス大聖堂)、その左にある旧市庁舎Cabildo(キャビルド)、大聖堂の右に位置するキャビルドと対称的なPresbytere(プレスビテーレ)は、とりわけ印象的である。キャビルドは、ルイジアナ買収の署名が行われた場所であり、プレビステーレはかつてローマ教会の寺院や裁判所として使用された。
ニューオーリンズでアメリカ軍は圧勝したが、実は英米戦争を終結させるTreaty of Ghent(ゲント条約)は既に前年の12月24日に調印されており、英米両軍はそのことを知ることなくニューオーリンズで戦っていたのであった。アンドリュー・ジャクソンはこの戦いにより一躍国民的ヒーローとなり、後にフレンチ・クウォーターにはジャクソン広場ができ、彼の銅像が置かれた。
ニューオーリンズ近辺には、もともと多くの原住民が暮らしていたが、1718年にJean-Baptiste Le Moyne(ジャン・バプティースト・レイ・モイン)が植民団を率い、ミシシッピー川下流のLake Pontchartrain(ポンチャトレイン湖)の南岸の高台にフランスの植民地を築いた。この町は、フランス摂政オルレアン公フェリペ2世にちなんで名付けられた。この頃からプランテーション開発のためアフリカや西インド諸島から奴隷が導入された。1722年にニューオーリンズは、フランス領ルイジアナの首都とされた。ニューオーリンズの町の中心地は発展し、後のフレンチ・クウォーターとなった。1763年にフランス領ルイジアナはスペインに譲渡され、スペイン人がニューオーリンズに流入するようになった。アメリカは、1795年にスペインからニューオーリンズ港の使用を認められるようになり、ニューオーリンズは1800年にルイジアナが再びスペインの手からフランスに戻された後、1803年のルイジアナ購入によりアメリカ領となった。これを機にアメリカ南部の他州から黒人奴隷が導入されるようになった。こうして、ニューオーリンズでは、フランス、スペイン、アフリカ、西インド諸島、原住民、アメリカなどの文化が入り混じるハイブリッドな町として発展していった。
ルイジアナの風景は、アメリカの中でも独特である。高低差のない平らな土地が広がり、河川が低いところを求めて彷徨う。河川の周辺には湿地帯が広がり、一度河川が氾濫したり、大雨が降るとあまりに土地が平らなため、水がいつまでも引かない。この土地にフランス、スペイン、アフリカ、原住民の人々が住み、それぞれの文化が融合し、独特のCreole(クレオール)と呼ばれる文化を形作っている。Cane River Creole National Historical Park(ケイン川クレオール国立歴史公園)では、Natchitoches(ナッカタッシュ)の町の付近に、川のように見える長細いCane River Lake(ケイン・リバー湖)のほとりにあるフランス系住民が始めた2つのプランテーション、Oakland Plantation(オークランド農園)とMagnolia Plantation(マグノリア農園)を受け継ぎ、クレオール文化の保存に努めている。
オークランド農園は、1789年にフランス系3代目のJean Pierre Emmanuel Prudhomme(ジーン・ピエール・エマニュエル・プルドーム)がスペイン政府から取得して開設したBermuda Plantation(バミューダ農園)が基となっている。1868年に遺産相続の際にバミューダ農園は二分割され、ケイン・リバー湖側の敷地がオークランド農場となったものである。プルドームは亡くなるまでに綿花を中心とする農園を拡張し、104人の奴隷を抱えていたとの記録が残っている。農園は、農場というよりは、自給自足の共同集落に近く、商品となる綿花などの作物のほかに、野菜を栽培し、鶏、豚、牛などの家畜を飼育していた。この地方では食用に鳩の飼育も行われていた。鍛冶屋、大工、医者も区画内に住んでいた。(オークランド農園の敷地図は、ここを参照。)