荒涼とした山と大地が広がり、ハゲタカが空を舞う。そこは砂漠。乾いた土地でも、サボテン類が日陰、水分、食料を与え、ウサギ、ネズミ、トカゲ、野鳥などの小動物は息づいている。その小動物をコヨーテやワシが狙っている。静かで一見生命の脈動を感じられない気がするが、ここにもしっかりとした生態系が確立されている。砂漠というと砂丘がどこまでも続くサハラ砂漠のような風景を想像するが、アメリカの砂漠は違う。緑のない起伏のある乾いた土地が延々と広がる。昼間には容赦なく照り付ける太陽も、朝夕には淡い光で長い影を砂漠に投影し、美しい風景を作り上げる。Joshua Tree National Parkは(ヨシュア・ツリー国立公園)は、砂漠の国立公園である。
また、ヨシュア・ツリー国立公園には、ロッククライマーに手ごろな岩が地面から多数突き出ており、この公園の特徴の一つとなっている。1億年前に地殻変動により熱せられた溶岩が地上近くまで上昇し、地下で冷えて固まり、深成岩を形成した。この深成岩は、長方形に割れやすい性質をしており、地上から染み込んだ水分が亀裂に染み込み、亀裂に沿って角を削っていった。乾燥した気候となり、スコール時に生じる洪水が表層部の土壌を洗い流し、中から丸みを帯びた巨岩が地上に姿を現すこととなった。この形成過程は園内のGeology Tour Roadで観察することができる。
カリフォルニアの南、Santa Barbara Channel(サンタ・バーバラ海峡)を隔てて、太平洋側に8つの島々が点在する。これらの島々は総称して、Channel Islands(チャネル(海峡)諸島)と呼ばれているが、そのうちの5つ、Anacapa(アナキャパ)、 Santa Cruz(サンタ・クルーズ)、 Santa Rosa(サンタ・ローザ)、 San Miguel(サン・ミゲル)、 Santa Barbara(サンタ・バーバラ)は、Channel Islands National Park(チャネル諸島国立公園)として保護されている。太平洋に浮かぶこれらの小さな島々は、太平洋の波にもまれ、切り立つ崖に覆われた、人を寄せ付けない感じのある離島であるが、上陸すると、特に春には一面に花が咲き乱れ、美しい楽園が広がり、訪れる者を魅了して止まない。
Pinnacles National Park(ピナクルズ国立公園)の中央部には、かつての1/3程度に削り取られたものの、なおHigh Peaks(ハイ・ピークス)と呼ばれる巨岩の尖塔が立ち並んでいる。道路によるアクセスは、公園の東側と西側それぞれ別になっており、公園を大回りしなければ、片一方の入口からもう片一方の入口にたどりつかない。公園を横断するには、ハイ・ピークスを横断するトレールに頼るしかない。それだけにハイカーやロッククライマーのやる気をかき立てるのかもしれない。時間のない人は、ハイ・ピークスを見るためには公園の西側からアクセスしなければならない。
1901年にミューアが著したOur National Parks(我らが国立公園)によってミューアは強力な支援者を得ることになった。この書物は、セオドア・ルーズベルト大統領の目に留まり、1903年大統領はミューアをヨセミテに訪ね、二人はキャンプファイヤーを囲んで夜通し語り合い、連邦政府のより積極的な自然保護への関与の必要性で一致し、セオドア・ルーズベルト大統領は強力に自然保護活動にまい進することとなる。1905年にヨセミテ峡谷は連邦政府の管理に移管された。
カリフォルニア北部のSan Ramon Valley(サン・ラモン渓谷)のひっそりと人里はなれたところに、まるで世間の雑音から逃れるように、劇作家Eugene O’Neil(ユージン・オニール)の住まいが立っている。ユージン・オニールは、アメリカで唯一ノーベル文学賞を受賞した劇作家で、演劇にリアリズムを持ち込んだ近代演劇の父とも言うべき人物である。流浪の生活の末にオニールが行き着いた場所は、喧騒な都会と公衆の好奇な目とは無縁の静かな田舎町のはずれであった。ここで彼は演劇の演出など表舞台から姿を消して創作活動に没頭し、作家としての最後の花を咲かせた。
サンフランシスコの北に、National Geographic Adventure誌が選ぶ2007年ベスト・ハイキング・トレールに選ばれたトレールのある国立公園ユニットがある。その名前は、Point Reyes National Seashore(レイエズ岬国立海岸)。切り立った崖に飛び散る波、どこまでも一直線に続くビーチが組み合わさった絶景が堪能できる場所である。
レイエズ岬のある半島は、カリフォルニアから太平洋に突き出した背びれのような奇妙な恰好をしている。それもそのはずで、レイエズ岬半島とカリフォルニア本土の間には、カリフォルニアに地震をもたらしているSan Andreas Fault(サン・アンドレス断層)が横たわっているためだ。ここは北米プレートと太平洋プレートが衝突している場所で、1906年のサンフランシスコ大地震の際には、北西方向に20フィート(6m)もずれが生じたという。地層的には、周囲のものとは全く異なり、310マイル(500km)離れたカリフォルニア州南部のTehachapi(テハチャピ)山地のものと同じ地層が横たわっている。これはレイエズ岬半島を載せた太平洋プレートが年に2インチ(6cm)ずつ北西に動いているためである。
ヨーロッパ人では、イギリス人探検家Francis Drake(フランシス・ドレーク)が1579年に初めてこの地を踏んだと言われている。ドレークは、スペインに対抗してエリザベス女王に派遣され、太平洋岸を航海中にレイエズ半島に修理のため5週間立ち寄った記録が残っている。ドレークが乗り入れた湾や入り江は、Drake Bay(ドレーク湾)、Drake Estero(ドレーク入り江)と呼ばれている。その後も何人かの探検家たちがこの半島の前を横切っているが、1603年にスペイン人探検家Don Sebastian Vizcaino(ドン・セバスチャン・ビスカイーノ)がモントレーから出てカリフォルニア沿岸を探検する途中で嵐を避けるためにドレーク湾に立ち寄り、嵐が治まってレイエズ半島沖を航海中にこのごつごつした断崖をLa Punta de Los Reyes(三人の王の晩餐)と名付けた。このことから、ここはReyes(レイエズ)岬と呼ばれるようになった。メキシコ統治時代には、実際レイエズ岬半島は3人の地主によって分割所有されていたという話も残っている。
坂の町サンフランシスコの風物詩ケーブルカーの終点で降り、東に向かうと観光客でごった返すフィッシャーマンズ・ワーフがあり、西側には本日紹介するSan Fancisco Maritime National Historical Park(サンフランシスコ海洋国立歴史公園)がある。かつては世界の七つの海を股にかけたアメリカ船だが、今日のアメリカには、外航船社は残っていない。サンフランシスコ海洋国立歴史公園には、19世紀から20世紀初頭に建造された6隻の船のほか、航海に関する様々な資料が集められた資料館が併設され、港町サンフランシスコの海の博物館なっている。
Aquatic Park(アクアティック公園)に隣接するHyde Street Pier(ハイド通り埠頭)に係留された船の中でも最も目を引くのが、三本のマストを備えた横帆船Balclutha(バルクルーサ)である。バルクルーサは、1886年にスコットランドのグラスゴーで建造された貨物船で、ウェールズやオーストラリアから石炭などを西海岸に供給し、カリフォルニア産の小麦粉やワシントン産の材木などを運び出し、西海岸の発展を支えた。荒くれ者の多い港町だけに、積荷にはスコッチウイスキーも入っていたという。バルクルーサは、航海の難所南アメリカの南端Cape Horn(ホーン岬)を17回も通ったつわものである。その後、サケ缶船や映画にも使用された。
アメリカのよいところは、どのような大都会にも近郊に緑あふれる自然が残されており、そこでハイキング、キャンプ、バイク、カヤック、カヌーなど、自然と一体となったスポーツや活動を楽しめる点にある。サンフランシスコにも、ゴールデン・ゲート・ブリッジのあるゴールデン・ゲート周辺がGolden Gate National Recreation Area(ゴールデン・ゲート国立レクリエーション地域)に指定され、様々なレクリエーション活動を楽しむことができるようになっている。
ゴールデン・ゲート国立レクリエーション地域は、大きく分けるとゴールデン・ゲート北部、南部、サンフランシスコ湾内の3つの地区に分けられる。ゴールデン・ゲート北部には、海岸線に沿って数多くの砲台の跡が残っている。ゴールデン・ゲート・ブッリジ北端の東側にあるFort Baker(ベーカー砦)の周辺の砲台は、1902年から1910年に建設された砦である。1880年代に戦争長官William C. Endicott(ウィリアム・エンディコット)は、時代遅れとなった沿岸部の石造りの砦を近代化することに力を注いだ。コンクリート製の砲台を分散して配置し、最新の砲銃を備えると同時に、兵士の宿舎などもより快適なものにアップグレードされ、娯楽施設なども整備され、現在の米軍基地の原型が整備された。橋の西側は、Marine Headlands(マリン・ヘッドランズ)地区で、その北側には多くのトレールが張り巡らされ、多くのハイカーやバイカーに利用されている。中でもTennessee Valley(テネシー谷)は人気のスポットとなっている。マリン・ヘッドランズの西端にあるPoint Bonita Lighthouse(ボニタ岬灯台)は、1855年に整備された西海岸3番目の灯台で、サンフランシスコ湾に入港しようとする船にとってゴールデン・ゲート北側の目印として重宝され、現在でも現役で活躍中である。ボニタ岬灯台の周辺にもかつての砲台跡が数多く残っている。Fort Cronkhite(クロンクハイト基地)は、第2次大戦の米軍基地の跡である。ちょっと変わったところでは、旧Nike missile(ナイク・ミサイル)基地があり、冷戦時代の地対空ミサイル基地を垣間見れるようになっている。この辺りは切り立った高台となっており、多くのバイカーたちが足を休めて美しい風景を眺めている。
最も有名なのは、橋の南にあるThe Presidio(プレシディオ)であろう。ここは、1776年にJuan Bautista de Anza(ファン・バウチスタ・デ・アンザ)がサンフランシスコに対するスペインの領有権とMission San Francisco de Asís(ミッション・サンフランシスコ・デ・アシス)での布教活動を守るために置いた駐屯基地が始まりである。プレシディオは、スペイン語でPrison(牢屋)を意味する。1821年のメキシコの独立によりメキシコの駐屯基地となるが、1846年の米墨戦争勃発の際、プレシディオは米軍に占領され、戦後、カリフォルニアがアメリカに編入されたのに伴い、正式に米軍の砦となった。南北戦争後には、アッパチ族やModoc(モドク)族との戦いの基地として使用され、1890年代から1916年に国立公園局ができるまでプレシディオの兵士はヨセミテなどのカリフォルニアの国立公園のパークレンジャーを務めた。米西戦争とフィリピン戦争の際にはフィリピンに出征する兵士の基地となった。1902年に完成したLetterman Hospital(レターマン病院)は米国初の陸軍総合病院と言われている。
ゴールデン・ゲート国立レクリエーション地域のもう一つの名物は、サンフランシスコ湾に浮かぶ島Alcatraz(アルカトラス)である。アルカトラスとは、スペイン語でペリカンという意味で、1775年にヨーロッパ人として初めてサンフランシスコ湾を訪れたJuan de Ayala(ファン・デ・アヤラ)によって命名された。1853年にこの島に灯台が建てられたのが、この島の利用の始まりで、この灯台は太平洋岸に建設された初めての灯台であった。現在の灯台は、1909年に竣工した2代目である。1850年にサインフランシスコ湾防衛網の一環として、この島に砦が築かれ、南北戦争の頃には110基の大砲を備えた防衛基地であった。1907年には砦の機能を廃止して、陸軍の監獄として捕虜や犯罪兵の収容や使用されるようになった。しかし、この島が一躍有名となるのは、1934年に脱獄不能なように大規模な改造を施して、凶悪犯罪人を収容する連邦刑務所として使用するようになってからだ。禁酒法時代のシカゴマフィアの大物アル・カポネがここに収容されていたことは有名な話だ。1963年に運営費用がかかりすぎたため閉鎖されるまでの間、合計1,545人がアルカトラスに収監された。アルカトラスから36人の囚人が脱獄を試みたが、セキュリティーが厳重な上、冷たい海水と早い潮流のため、7人射殺、2人溺死、5人行方不明、22人身柄確保となっており、成功した囚人は確認されていない。クリント・イーストウッド主演の「アルカトラスからの脱出」さながらに、毎年アルカトラスからフィッシャーマンズ・ワーフ近くのAquatic Park(アクアティック公園)までの1.5マイル(2.4km)を泳ぐ水泳大会が行われている。