シャイロの戦いに勝利し、ミシシッピー州侵攻への取っ掛かりを作ったグラントの次なる目標はミシシッピー州中腹の都市Vicksburg(ヴィックスバーグ)であった。ヴィックスバーグは、ミシシッピー川が馬蹄形に湾曲して流れる高台にある厳重に砦を張り巡らせた要塞都市であった。この高台の要塞都市からミシシッピー川を航行する船舶を攻撃することは非常に容易く、南部がこの都市を押さえている限り、連邦政府はミシシッピー川の航行権を奪還することはできず、ミシシッピー川西のルイジアナ、アーカンソー、テキサス諸州と他の南部各州との連携を打ち切ることは不可能であった。この難攻不落の要塞都市は、「南軍のジブラルタル」と呼ばれ、南北戦争開始当初からこの都市が戦局を大きく左右する鍵と双方が見ていた。ヴィックスバーグには、John C. Pemberton(ジョン・C・ペンバートン)中将以下15,000の兵であった。1862年5月と6月に、ニューオーリンズを陥落させたDavid Farragut(デービッド・ファラガット)海軍少将は、ミシシッピー川からのヴィックスバーグ攻略を試みたが失敗に終わっている。
1863年3月31日、グラント率いる本隊45,000はミシシッピー川の西側のルートを通って南進を開始した。4月16日及び22日、David Porter(デービッド・ポーター)海軍少将率いる艦船部隊の大半は、ヴィックスバーグをすり抜け、ミシシッピー川の南進に成功した。陸軍部隊が南進する間、グラントは、シャーマンにヴィックスバーグへの威嚇攻撃を行わせるとともに、Benjamin Grierson(ベンジャミン・グリアーソン)大佐率いる騎兵隊にミシシッピー州中部を撹乱させ、ペンバートン率いる守備隊の注意をそちらに引きつけているうちに、本隊を南進させた。4月30日、グラント率いる本隊は、ミシシッピー川を渡り、Bruinsburg(ブルインズバーグ)に上陸した。この上陸作戦は、ノルマンジー上陸作戦が行われるまで米軍最大の上陸作戦に数えられていた。上陸した連邦軍は、5月1日、Port Gibson(ポート・ギブソン)の南軍守備隊を撃破した後、ヴィックスバーグに北進せず、南軍の補給経路を断ってヴィックスバーグを孤立化させるとともに、自軍の背後を固めるため、ミシシッピー州最大の都市Jackson(ジャクソン)を目指して東に兵を進めた。南軍はジャクソンに6,000の兵しか駐在させておらず、5月14日、ジャクソンに派遣されたJoseph Johnston(ジョセフ・ジョンストン)大将は圧倒的な北軍の兵力を前に成すすべなく退却を命ずるしかなかった。グラントは、ジャクソンに守備隊を置くとすぐさまヴィックスバーグに向けて踵を返した。グラントは、これを食い止めようとするペンバートン率いる南軍をChampion Hill(チャンピオン・ヒル)、Big Black River Bridge(ビッグ・ブラック・リバー・ブリッジ)で立て続けに撃破し、5月18日にはヴィックスバーグの入口に到達した。ペンバートン率いる南軍は要塞都市ヴィックスバーグの中に立て篭もった。(ここまでの経緯については、ここを参照。)
7月9日には、ミシシッピー川で最後の抵抗拠点として残ったPort Hudson(ポート・ハドソン)も、包囲戦の末、ヴィックスバーグ陥落の報を聞き、Nathaniel Banks(ナザニエル・バンクス)少将率いるArmy of the Gulf(メキシコ湾軍)に降伏した。これによってミシシッピー川の航行権は北軍が完全に制覇することとなり、南部はルイジアナ、テキサス、アーカンソー各州は他の州と分断されることとなった。ヴィックスバーグでの北軍の勝利は、東部戦線のゲチスバーグでの勝利の1日後にもたらされ、この1863年7月を機に、南北戦争の戦局は大きく連邦政府有利に傾くこととなる。ヴィックスバーグ攻略の戦果を挙げたグラントは、北軍の戦局が不利なチャタヌガに派遣される。
なお、Vicksburg National Military Park(ヴィックスバーグ国立軍事公園)には、16マイル(26km)のツアー用道路が整備されており、1,300以上と言われる記念碑やマーカー、20マイル(32km)にわたる防御土塁を見学することができる。1862年12月12日に、米国戦争史上、初めて機雷で沈められた装甲艦Cairo(カイロ)が引き揚げられて展示されており、見逃せない。
1682年フランス人探検家Robert Cavelier(ロバート・キャバリエ)は、Henri de Tonti(ヘンリー・ド・トンティ)にアーカンソー川流域の土地を付与し、1686年にトンティは、クアポー族の村の近くに、毛皮の取引を行う取引所を設立し、アーカンソー・ポストと名付け、ここに巨大な十字架を掲げた。トンティはクアポー族とも良好な関係を築き、クアポー族はフランスの友好部族となった。しかし、1689年ごろには、毛皮市場へのイギリスの参入により、大量のビーバーが捕獲されるようになり、ビーバーの毛皮の価格が低迷し、採算が合わなくなったため、この取引所は閉鎖され、イエズス会の宣教師に譲られた。イエズス会のクアポー族への布教も進展せず、1700年ごろにはここは放棄された。その後も豊かな自然はフランス人を誘い、引き続き毛皮商人がビーバーの捕獲に現れたほか、開拓が試みられるようになったことから、1721年にフランスは、ここに砦を築いた。1749年の洪水と親イギリスのChickasaw(チッカソー族)の襲来により、砦が破壊されたため、いったんアーカンソー川上流に砦を移したが、1756年にはフレンチ=インディアン戦争に従事するフランス軍の物資輸送を守るために、再び下流の方に造り直した。しかし、フレンチ=インディアン戦争に敗れたフランスは、1763年のパリ条約でミシシッピー川以西のルイジアナ領をスペインに割譲することとなった。
ド・トンティの十字架(再現)
スペインは、フランスと同様に、アーカンソー川流域で毛皮取引を商い、クアポー族とは友好関係を結んだ。1779年に洪水のため、下流の砦が破壊されたため、もとの場所にFort Carlos III(カルロス3世砦)を築いた。アメリカ独立戦争では、スペインはフランスとともにアメリカ側に立って参戦したことから、カルロス3世砦はイギリスの攻撃対象となった。1783年James Colbert(ジェームズ・コルバート)大佐率いるイギリス部隊とチッカソー族の混成部隊は、カルロス3世砦を攻撃したが、スペイン軍はクアポー族の力を借りてこの攻撃を撃退した。この戦いは、独立戦争においてミシシッピー川以西唯一の戦いとなった。1800年にルイジアナ領は再びフランス領となり、1803年にフランスはこれをアメリカに売却した。
シーゲルの攻撃は当初はうまく行ったが、Sharp Farm(シャープ農場)付近でのマクロックの反撃を友軍の応援部隊と見間違ったために、これをまともに受けて総崩れとなってしまった。この結果、戦いの流れは完全に変わり、流血の丘で反攻を受ける中、リヨンは戦死し、指揮を継いだSamuel D. Sturgis(サミュエル・D・スタージス)少佐は弾薬も少なくなる中、退却を決意した。リヨンは、北軍の将官初めての戦死者となった。
しかし、運命の転機は訪れる。南軍によるサムター砦への攻撃が引き金となり、南北戦争が始まった。リンカーンは、75,000名の志願兵の募集を呼びかけた。これに呼応して各地で志願兵の組織が始まり、イリノイでも募集が始まり、軍隊経験のあるグラントはこれを手伝った。そしてイリノイ州の首都Springfield(スプリングフィールド)に部隊を連れて報告に行ったところ、彼の軍隊経験を見込んだ知事の依頼により、そのまま志願兵の募集と訓練を手伝うことになった。そしてそのままイリノイ第21歩兵連隊を率いる大佐に任命された。さらに知り合いのElihu B. Washburne(エリフー・B・ウォッシュバーン)下院議員の推薦で准将に引き上げられた。名もない一軍人がやがてFort Donelson(ドネルソン砦)の戦いで全国に名を知られることとなる。
グラントは、その生涯各地を転々としながら、生活することとなるが、ホワイト・ヘイブンは彼が最愛の妻とであった場所であり、人生で最も試練のときを過ごした場所でもあり、グラントにとって最も愛着のある場所であり、その生涯に渡り、保有しつづけた場所であった。現在、この場所はUlysses S. Grant National Historic Site(ユリシーズ・S・グラント国立史跡)として保存されている。なお、ホワイト・ヘイブンはホワイトと言いながらグリーンの家であるが、これはジュリアの実家の以前の邸宅をホワイト・ヘイブンと呼んでいたのをそのまま引き継いだためである。
グラントはすかさず部隊をドネルソン砦に向けて進軍させた。ドネルソン砦を守るのは、John B. Floyd (ジョン・B・フロイド)准将以下17,000の兵士であった。フロイド准将は、戦前ブキャナン政権下で戦争長官を務め、南部諸州の連邦離脱前夜連邦軍兵士を全国に散らすとともに、連邦軍の武器・弾薬を南部に移し、南部諸州の連邦離脱を助けたため、北部から追求されている政治家であった。南軍は、ドネルソン砦の周囲に塹壕を築いて部隊を配備した。
グラントはこの勝利で一躍北部のヒーローに踊り出て、少将に昇格した。グラントの名前の最初の2つの頭文字U.S.をもじって、”Unconditional Surrender” Grant(無条件降伏のグラント)と呼ばれるようになった。また、この勝利によりカンバーランド川の航行権を確立し、北軍は、ケンタッキーに加え、テネシーの中西部も支配下に置くこととなった。南軍の西部戦線の総司令官のAlbert S. Johnston(アルバート・S・ジョンストン)大将は、兵力をミシシッピー州の北部のCorinth(コリンス)に結集し、挽回を期すこととした。南北両軍は、ミシシッピー州との境界近くのテネシー州Shiloh(シャイロー)で激突することとなる。
4月6日、ようやく攻撃態勢を整えた南軍は、早朝、無防備な北軍に襲い掛かった。しかし、南軍の攻撃も、散らばった北軍部隊に合わせて部隊を展開したため、部隊間の連携はほとんど困難となり、北軍の左翼に攻撃を集中させ、北軍をテネシー川から切り離し、退路と援軍を断つとの作戦を実施することが困難となった。戦場は混乱を極めたが、南軍の先制攻撃を予想していなかった北軍は驚きと混乱に陥り、新兵の多くは、持ち場を離れ、ピッツバーグ・ランディングに向けて退却を始めた。しかし、混乱の中で、北軍左翼のW. H. L. Wallace(W. H. L. ワラス)准将とBenjamin Prentiss(ベンジャミン・プレンティス)准将の師団の一部は、天然のくぼ地(Sunken Road)を塹壕として利用し、南軍が62の重火器による集中砲撃を行うまで7時間も南軍の攻撃を食い止めた。ワラス准将は戦死し、プレンティス准将は捕虜となった。ここはHornets’ Nest(スズメバチの巣)と後に呼ばれるようになり、ここでの奮闘は、グラントに北軍を再結集させる時間的余裕を与えた。
シャイローの戦いは、死傷者が両軍あわせて24,000に上り、両軍とも兵力の1/4近くを失う大激戦となった。激戦地となった桃畑の近くの池は両軍兵士の血で染まったため、Bloody Pond(血染めの池)と呼ばれるようになった。このため、シャイローの戦いで勝利を収めたものの、グラントは初日の失敗の責任を責められ、彼を解任すべきとの声が上がった。しかし、リンカーンは、"I can't spare this man; he fights."(この男をはずすことはできない。彼は戦うからだ。)と述べ、グラントを擁護した。だが、この後、グラントはハレックに干されてしまう。北軍は、この間、コリンス、メンフィスに進軍し、テネシー州西半分の支配を確保し、ミシシッピー州侵攻への足がかりを築いた。ハレックは、北軍全体の司令官に登用されてワシントンに赴任し、これによってようやくグラントは復権することができた。グラントの次なるターゲットは、ミシシッピー川を見下ろす要塞都市Vicksburg(ヴィックスバーグ)を攻略し、ミシシッピー川の航海権を握り、南部を東西に分断することであった。
スミスは、1864年7月11日、ミシシッピー州北部のPontotoc(ポントトック)に到着した。フォーレストは6,000の騎兵隊でその南東のOkolona(オコローナ)に配備していたが、地区司令官のStephen D. Lee(スティーブン・D・リー)中将率いる2,000の応援部隊の到着を待っていた。この間に、スミスは兵を東のTupelo(トゥペロ)を占拠し、塹壕を築いた。不意を突かれトゥペロの高地を北軍に押さえられたフォーレストは、相手の選んだ地を攻撃する羽目に陥ってしまった。
7月14日、リーとフォーレストは、スミスの正面を攻撃するが、成功せず、続いて左翼からJoseph A. Mower(ジョセフ・A・モーワー)准将の師団を、そして右翼からBenjamin Grierson(ベンジャミン・グリエルソン)准将の師団を攻めるが、塹壕に立て篭もる北軍を切り崩すことができなかった。フォーレストは、その夜、北軍の左翼の黒人部隊を攻撃するが、跳ね返された。しかし、スミスの北軍も万全な状態ではなかった。度重なる南軍の攻撃を跳ね返すために、武器・弾薬を消耗してしまった。このために、スミスは、翌15日、トゥペロを離れ、メンフィスに向けて部隊を移動させようとした。この機会をとらえ、フォーレストはスミスの背後を襲うが、撃退され、フォーレスト自身も足を負傷し、戦線を離脱してしまった。(両軍の動きは、ここ(PDF)を参照。)
アメリカでは奴隷問題が建国当初から南北が大きく対立する政治問題であった。南部では、奴隷は農場経営のため不可欠の労働力であり、これに対する連邦政府の介入は州の固有の権利と個人の財産権を脅かす問題であると主張され、倫理上の観点から、あるいは工業化が進展する北部での将来の働き手としての期待から、北部の諸州は奴隷制度に反対してきた。このため、アメリカの国境が西に広がるたびに新たな州の奴隷問題に関する位置づけを巡って、国を二分する問題となった。1860年の奴隷制度への反対を公然と唱えるリンカーンの大統領への当選は、この対立を修復不能なまで決定的なものとし、1860年12月24日にサウスカロライナ州が真っ先に連邦離脱を決議し、これにミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナの各州が続き、これら7州は1861年2月9日にConfederate States of America(アメリカ合衆国連合)を結成し、初代大統領にFranklin Pierce(フランクリン・ピアース)政権で戦争長官を務めたJefferson Davis(ジェファーソン・デービス)を選出した。3月には、テキサスがこれに加わった。そして南部諸州は、領域内にある連邦政府施設を次々と接収し始めた。