Port Alsworth(ポート・アルスウォース)には、唯一の国立公園局のビジターセンターが置かれており、ここからは近くのTanalian Falls(タナリアン滝)を通ってKontrashibuna Lake(コントラシブナ湖)に至るトレールやTanalian Mountain(タナリアン山)に向けたトレールが整備されている。ただし、ここは熊が出る地域なので熊対策は十分に行なっておこう。(なお、クマ対策については、Katmai National Park & Preserve(カトマイ国立公園・国立保護区)を参照のこと。)
タナリアン滝
コントラシブナ湖
また、公園中央部Twin LakesのほとりにはRichard Proenneke(リチャード・プロエンネック)さんのキャビンが残されている。通称Dick's Cabin(ディックの小屋)と称されるこのキャビンは、この地で電気も水道もなく1967年から1998年までの約30年間を一人で過ごしたプロエンネックさんが生活したそのままに残されている。彼は約30年間のフロンティアでの生活を詳細に記録しており、これが編集されて出版された本(One Man's Wilderness: An Alaskan Odyssey )は米国で高い評価を受けている。フロンティア人の知恵が詰まったその住居と詳細に記録された暮らしぶりは、フロンティア生活の厳しさとロマンを今も伝え、多くのアメリカ人を魅了している。
モロー・ポイント貯水湖は、鋭く切り立った崖が押し迫る細長い貯水湖である。夏の間は、ボート・ツアーが催行され、人気となっている。モロー・ポイント貯水湖ができる前、ガニソン川に沿ってDenver and Rio Grande Western Railroad(デンバー=リオ・グランデ西部鉄道)が15マイル(24km)ほどの距離をCimarron(シマロン)まで走っていた。この路線は、1882年に周辺の鉱山ブームに対応するための鉄道として開通し、敷地を十分にとれないため3フィート(1.2m)の狭軌が使用された。夏には絶景が楽しめるが、冬には雪崩やがけ崩れの危険と隣り合わせの危険な路線であった。それでも1940年まで旅客輸送は行われ、貨物輸送は1949年まで続いた。ボート・ツアーの船着場までのPine Creek Trail(パイン・クリーク・トレール)はかつての線路敷で、架線を引いた名残も残っている。モロー・ポイント貯水湖の中ほどに聳え立つCurecanti Needle(キュアキャンティの針)と呼ばれる石柱は、デンバー=リオ・グランデ西部鉄道のシンボルマークとして使われた。
氷河に頂上を覆われたカスケード山脈の高峰を頂くNorth Cascades National Park(ノース・カスケーズ国立公園)の南に細長い人造湖が横たわっている。この湖は、1927年に竣工した水力発電ダムLake Chelan Dam(シェラン湖ダム)によって堰き止められたシェラン湖である。長さが50マイル(80km)ながら、幅が1マイル(1.6km)しかない細長い湖である。シェラン湖の南端のシェランの町付近の湖畔には別荘が立ち並び、避暑地となっている。このシェラン湖の北部とその周辺の地域は、Lake Chelan National Recreation Area(シェラン湖国立レクリエーション地域)に指定され、開発から保護されている。
Whiskeytown-Shasta-Trinity National Recreation Area(ウィスキータウン/シャスタ/トリニティー国立レクリエーション地域)は、ウィスキータウン湖、シャスタ湖、トリニティー湖の3つの人造湖を中心としたレクリエーション地域である。これらの3つの人造湖は、Central Valley Project(セントラル・ヴァレー・プロジェクト)と名付けられたカリフォルニア北部のセントラル・ヴァレー地域における洪水の防止と農業用水の確保のためのダム事業、用水路事業の一環として造られたものである。3つのレクリエーション地域ユニットは、ボート遊び、カヤック、カヌー、スキューバダイビング、ウォータースキー、水泳、フィッシングなどのウォーター・レクリエーションが盛んな場所となっている。また、湖の周りはキャンプやハイキングなどにも人気の場所となっている。3つのユニットのうち、ウィスキータウンのみ国立公園局が管理運営を行い、シャスタとトリニティーのユニットは、Shasta-Trinity National Forest(シャスタ=トリニティー国有林)とともに米国森林局が管理運営を行っている。
ウィスキータウン・ユニットには、ウィスキータウン湖に注ぎ込む川にCrystal Creek Falls(クリスタル川滝)、Whiskeytown Falls(ウィスキータウン滝)、Boulder Creek Falls(ボールダー川滝)、Brandy Creek Falls(ブランディー川滝)の4つの美しい滝が流れ、この4つ全てを訪れるとビジターセンターで賞品がもらえるしかけとなっている。
クリスタル川滝
ウィスキータウン滝
ボールダー川滝
ブランディー川滝
このウィスキータウン湖に大量の水を供給しているのが、Trinity River(トリニティー川)である。1961年にトリニティー川を2段階のダムで堰止めて、Lewiston Lake(ルイストン湖)とその北にTrinity Lake(トリニティー湖)を築き、ルイストン湖の水は地下トンネルによってウィスキータウン湖に運ばれている。これによって本来西の太平洋に流れるはずであった水がセントラル・ヴァレーを南北に流れるSacrament River(サクラメント川)に流れ、セントラル・ヴァレー南部に供給されている。トリニティー湖のすぐ西側をTrinity Heritage National Scenic Byway(トリニティー・ヘリテッジ国立景勝間道)が走っており、トリニティー湖周辺の景色を楽しみながらドライブをすることが可能となっている。トリニティー川のルイストン湖のすぐ下流の部分は、一級のフライフィッシングの場所としても知られており、バスやニジマスなどを狙って腕に覚えがある人が集まってくる。
オクラホマ州というと何もない大平原を思い起こさせるが、意外にもその東部は落葉樹の森林に覆われ、緑深い土地となっている。オクラホマ州中部は落葉樹の森林地帯とプレーリーの大平原が出会う場所で、丁度その境目にまたがってオクラホマ州南部に国立レクリエーション地域が設定されている。この国立レクリエーション地域は、その土地を寄贈したChickasaw(チッカソー族)に因んでChickasaw National Recreational Area(チッカソー国立レクリエーション地域)と呼ばれている。
チッカソー族は元々ミシシッピー州の辺りに住んでいた部族で、ミシシッピー川以東の原住民は全てその西、とりわけ現在のオクラホマ州に移住させるとの連邦政府の政策によって、1830年代にオクラホマ州に移り住むようになった部族である。オクラホマは元来原住民の土地とされていたが、南北戦争終了後は、テキサスの牧場主らがオクラホマを通ってカンサス州の鉄道で肉牛の出荷を行うようになり、途中経路のオクラホマはカウボーイが追い立てる牛の群れで荒らされるようになり、原住民と紛争が生じた。連邦政府は、むしろ部族共有の土地を個人所有に切り替えさせ、浮いた土地を競売にかけて、移民を招いた。東部からの移民が増大するに至り、1890年代にはSulfur Springs(サルファー・スプリングス)の町が設立され、豊富に出る湧き水を売り物にホテルやバスハウスが立ち並ぶようになった。ところがこの湧き水はチッカソー族の土地への水の供給源であったため、チッカソー族は観光開発に伴う水源汚染を恐れた。この貴重な水源を守るためにチッカソー族が下した決断は、水源付近の640エーカー(256ha)の土地を丸ごと内務省に保護のため寄贈することであった。こうして1902年にSulfur Springs Reservation(サルファー・スプリングス保護区)が設立され、さらに1906年にこれがPlatt National Park(プラット国立公園)に昇格した。1930年代には、Civilian Conservation Corps(市民環境保全部隊)によって道路やトレールなどの整備や植林が行われ、レクリエーション用の公園となるよう手が加えられた。1966年に洪水防止と水源確保のために近くのRock Creek(ロック・クリーク)を堰き止めるArbuckle Dam(アーバクル・ダム)が建設され、Lake of the Arbuckles(アーバクル湖)が形成された。アーバクル湖とその周辺の土地及びプラット国立公園を統合して形成されたのがチッカソー国立レクリエーション地域である。
この地を最初に訪れたヨーロッパ人は、パイプ・スプリングと同様、Antanasio Dominguez(アンタナシオ・ドミンゲス)とSilvestre Velez de Escalante(シルベスター・ヴァレス・デ・エスカランテ)である。彼らは、1776年10月にサンタフェからカリフォルニアへのルートの探索の帰り道にコロラド川に行き着き、Wahweap(ワーウィープ)マリーナの辺りで宿泊しながら、コロラド川を渡る場所を探し、現在のPadre Bay(パドレ湾)の辺りの浅瀬を南岸に渡った。彼らが渡った場所、Crossing of the Fathers(神父が渡った場所)は、現在では湖の底になっている。
コロラド川流域は、こうして地図が作られ、探鉱者などがやって来たが、定住には一つ問題があった。コロラド川は急流であるため徒歩で渡ることが難しいことであった。このため、モルモン教会は、John D. Lee(ジョン・D・リー)を派遣し、グレン峡谷の入り口付近でフェリーを始めさせた。フェリーは、1873年に運航を開始し、Warren Johnson(ウォーレン・ジョンソン)が実際の運航を行った。この地域に住むナバホ族との紛争が予想されたため、翌年にはフェリー乗り場に砦が建てられ、Lee Ferry Fort(リー・フェリー砦)と呼ばれるようになった。また、リーは、17番目の妻であるEmma Lee(エンマ・リー)のために、Lonely Dell Ranch(ロンリー・デル牧場)を開設した。
リー・フェリー砦
ロンリー・デル牧場
20世紀になり、アメリカ西南部の定住者が増えると、水源や電源の確保が大きな課題となった。このため、早くからコロラド川を堰き止め、水源と電源を確保する考えが生まれたが、コロラド川流域はどこも非常に景観がすばらしいため、どこを堰き止めるのかというのは大きな問題となった。当初、コロラド川上流のDinosaur National Monument(ダイナソー国定公園)付近を堰き止める案が提案されたが、シエラ・クラブを始めとする環境団体の大きな反対に合い、妥協案としてグレン峡谷を堰き止める案が生まれ、その案に従い1956年にダム造成は着工された。10年の工期を経て、ダムは1966年に竣工した。満水になるのに17年を要したという。この結果、グレン峡谷のオリジナルの景観は失われてしまったが、水を豊かにたたえた湖はパウエル少佐にちなみパウエル湖と名付けられ、新たにウォーター・レクリエーションの場として生まれ変わり、現在ではGlen Canyon National Recreation Area(グレン峡谷国立レクリエーション地域)に指定されている。ダムのあるPage(ページ)の町では、大型ボートのレンタル屋さんもあり、地元の人は天気のよい日にピックアップ・トラックで乗りつけ、ボートを借りてパウエル湖でクルーズや釣りを気軽に楽しんでいる。マリーナは、この他、レクリエーション地域中ほどの、Bullfrog(ブルフロッグ)、Halls Crossing(ホールズ・クロッシング)、レクリエーション地域東部のHite(ハイト)にもあるが、グレン峡谷は、ハイト付近の景観が最も美しいと言われている。